671.怪我人と矜持(後編)
――時間を少し遡り。
これはルシアたちがあの坑道前の開けた場所からそろそろ下山を開始しようとした時のこと。
不調をニカノールに消してもらったとはいえ、傷自体は残っているにも関わらず、王子が後方陣に混ざろうとしたのを、ルシアが止めている時のことであった。
「...それなら、俺が引き受けるよ」
「ニカノール、何を!?」
ニカノールが間に割って入ったのである。
それも衝撃的な提案を携えて。
当然、ルシアは何を言い出すのかとニカノールに視線をやった。
王子もまた、眉間に皺を刻んでニカノールを見やる。
坑道奥での事情をほとんど知らない王子でもニカノールの服にべっとりと着いた血と剣による割かれた部分は視界に納まっているのである。
元より、非戦闘員である彼の提案は現実味を欠いていた。
「ほら、俺は動けるよ」
「そういう問題じゃないわ!」
しかし、ニカノールはそれを払拭するかのように殊更、明るく腕をその場で振り回す。
自分は動けると証明するかのように。
ルシアは間髪入れずにそれを遮る。
だって、ニカノールのそれは治療が治療だっただけに本当に大丈夫なのかは誰にも分からないのだ。
急にぶり返さないとも限らない。
それこそ、当初は誰かが背負って下りることも検討していたのだから。
ルシアとて、王子に無茶をしてほしくない。
だから、王子を引き留めていた。
けれど、代わりにニカノールが、というのも嫌なのだ。
現実を見ない我儘なのかもしれないけれど、それでも。
故にニカノールが何と言おうとその提案を呑む訳にはいかなかった。
「......分かった」
「!?――カリスト!!」
だが、その攻防は思わぬところから下りた許可で決着を付けることとなる。
ルシアは思わず、隣に居る王子を見上げる。
何を許可したのかを本当に分かっているのか、と問い詰めんがばかりに睨み上げる。
しかし、降って来たのは王子の掌で、それはルシアの頭に着地する。
ぽん、と宥めるかのような動作であった。
ルシアはその手のあまりの優しさに一瞬、口を噤んでしまう。
そして、それを狙っていたとばかりに王子は語り出した。
後は山を下りるだけで、本人が歩けると言うなら歩いても良い。
だけども、少しでも不調を感じるなら申告すること。
そしてもし、まだ残党が居るなら、その時は戦力に含む。
が、元々、戦闘を主としている訳ではない為、出来る限り本職の騎士たちに任せて、どうしようもない時だけ参加すること。
手が回らないようであれば、協力をするという形。
無暗には出張らない。
それは王子が提示する、ニカノールの提案を呑む代わりに課す条件だった。
ニカノールの意思を汲みながらも、決して無茶をさせない条件。
厳密に言えば、ルシアとミアの守りとして下山せよ、というところ。
だって、この場合におけるどうしようもない時というのは非戦闘員であるルシアとミアが襲われることである。
そして、それを守るなら必然的にニカノールの立ち位置はその近くの中央となる。
最も、安全な位置である。
「...上手く乗せられた気がするけど、それで良いよ。引き受けた」
「ああ。頼んだ、ニカノール」
暫しして、ニカノールが片眉を跳ね上げながらも、それに首肯を返した。
王子も気軽にそれを受け止めて、改めてニカノールに役目を託す。
交渉成立、ともいうようなその瞬間。
ルシアはもう、口を挟まなかった。
そうして、決まってしまったのならもう言うことはない、とばかりに視線を伏せたのだった。
ーーーーー
周囲の準備ももうじき終わる。
出発は間近だ。
無駄に言い合いしても意味はない。
ただ、感じた感情までがなくなる訳ではない為に、どうしても恨めしい視線を王子に向けてしまうのだった。
「......ルシア」
「皆まで言われなくとも、もう何も言わないわよ」
その視線が暫く納まらないだろうことを感じ取ったのだろう、王子が静かに呼ぶ声にルシアは先を読んだかのような一方的な即答を返す。
傍から見れば、不貞腐れた言い返しに他ならないのだが、こういった幼稚な面が出るのは王子の前だけである。
口を引き結んで、腕を組んで、態度まで完璧。
だがしかし、ここでそれを指摘することも苦笑することも誰もしない。
より拗ねさせるのを分かっているし、ようやっと抜けた気を雁字搦めに張り詰めさせたい訳ではないのだ。
「...それより、ニカにそう言うのなら貴方だって、そうあるべきよね?ねぇ、カリスト?」
「......」
王子が要らぬ地雷を踏まぬようにと懸命に黙っているうちにすっかり切り替えたルシアは王子に向かって、そう言った。
にぃ、と笑う顔はいっそ、悪役の如きしたり顔だ。
貴方だって、怪我人だもの。
そう言う声音が明るく弾んでいて、まさに上手く罠にかけたとでも言い出しそうなほど楽し気である。
しかし、事実で王子は押し黙る。
ニカノールを戦力として数えることにはもう何も言わない。
だけども、同じ怪我人である王子も同じ条件で良いはずだ、とルシアが言外に言うそれらは見事なまでの揚げ足取りであった。
だけど、それがどうしたというのか。
別に何とでも言うが良い。
先にニカノールに条件としてのそれを提示したのは王子なのだから。
言い出した人はその発言を守ってもらわなくては。
言ったことの責任くらい、ね。
さすがルシア、只では起きない。
完全に王子の言葉を利用してみせたのだ。
自分の意思を通す為に。
「...ああ、そうだな」
若干の間があったものの、ルシアのその提案を覆すことは難しいと悟ったのだろう王子は小さく頷いた。
諦観が混じっていたような気もするが、ここは気のせいだろうということで処理をしておこう。
ルシアは微笑み。
だってもう、ルシアにとって、欲しい結果は手に入ったのだから。
言うことはないのである。
下手に藪を突くつもりもなかった。
「出発の準備が整いました!」
丁度、話の決着が着いたところでノックスやオズバルドたちから声がかかる。
出発だ。
ルシアは前へと向けた視線をもう一度、王子へと差し向けた。
見上げた先で紺青とかち合う。
ルシアはそれに何処からともなく込み上げた微笑みを向ける。
「......行こうか」
先に口を開いたのは王子だった。
そうして、ルシアに向かって、手を差し出す。
――怪我をした方の腕を。
その動きにぎこちなさはなく、包帯さえなければ怪我をしているなんて思えないほど。
支障があるようには見受けられないほど、するりと動いた。
難なく振るって敵を一気に薙ぎ倒すそのままに力強ささえ、そこに秘めて。
ルシアが応急処置をしたあの怪我は支障が出ないはずがないものだったのに。
怪我そのものだけではなく、ふらつくほどの出血でもであったはず。
...痛みはないのだろう、今は。
それでも、動かしづらさまでは消えていないはずなのだ。
なのに、この滑らかな動き、何よりその手を差し出したこと。
まるで、本当に怪我などなかったみたいだ。
袖口の変わってしまった色が、服に咲いた赤だけが、包帯だけが確かにあったことを訴える。
王子は強く返り血はそうなかったから、そこにある大半は彼自身のものである。
ニカノールのそれとは違って傷はあるはずだ。
錯覚するほど、支障が見えない。
ルシアはそれが少しだけ、悲しくなった。
だから、ルシアはその手を取らずにするりと王子の横を抜けて、進み出る。
「――ええ。けれど、怪我をした方の手を差し出さないでちょうだい。もっと、自重して」
そんな言葉を付け加えて。
きっと、守る時のことを想定して、剣の触れないその腕をルシアを引き寄せるなり何なりするのに使いたかったのだろうけれど、そんなことはルシアに関係のない話である。
ルシアはちっとも王子の足手纏いになるつもりはないのだ。
幸い、ここに居る仲間たちは皆、優秀で王子の出番なんて余程のことがなければないだろうから。
その万全の対策は要らない。
王子はルシアのつん、と澄ませた態度に暫くその華奢な背を眺めていたが、ルシアが数歩進んだ辺りで手を下ろし、歩き出す。
そして、大股で歩き、すぐにルシアの横に並んだ。
二人で並んで、フォティアたちの待つ位置まで進んでいく。
その様子を置き去りにされたニカノールとミアは見た後、目を見合わせ、数歩遅れで後に続くのであった。
こうして、あの並びでの下山が始まったのである。
回想的な。




