670.怪我人と矜持(前編)
「ニカ、ミアさん。足元、注意をして。この辺り、木の根の露出が激しいから」
ざくざくと草むらを踏み分けて、進む道は道なき道で斜面である。
一度、足を取られてしまったら、そのまま転げ落ちても可笑しくない。
只でさえ、背の高い木々に阻まれて、月明かりすら届かない暗さの中なのだから。
はぐれてしまっても、転んだ時に上手く見えない視界で碌に受け身を取れないのも木々に打ち付けられてしまうのも困ったことに違いないので。
そうなる前の段階で気を引き締めておかねばならない。
「は、はい」
「ああ、うん。そんなに気を遣わなくても大丈夫なんだけど......」
ルシアは丁度、先頭が足を止めたところで器用に振り返り、すぐ背後をついてきていた二人に向けて、慎重に進め、と忠告する。
どちらもこの一向の中で一等、不安定な足場に足を取られやすいだろうとルシアが認識しているからである。
ミアは辛うじて見える位置に居るルシアにこくこくと頷いて、返した。
次の瞬間には素直に足元を見ようと視線を落とす。
その横でニカノールが苦笑を揺らす。
ちょっとしたその気遣いがこそばゆいのだろう。
彼もまた、成人済みの男であるから、そういう観点からのこともあるのだろうか。
それはルシアには分からぬところであるけれど。
「もう、ニカ。貴方も、さっきまで大怪我をしていたのよ。無茶をしては」
「無茶じゃないよ」
ルシアはそうであることを分かっていながら、それでも信用ならないとばかりに忠告を募る。
古今東西、どういった状況、どういった人物に関わらず、怪我人の言葉は信用ならないのだ。
だから、何と言われても告げることは告げる。
まぁ、これら全てルシアの気持ちなのである。
その為なら、自分のことだって棚に上げるのだ。
しかし、ニカノールは再度、苦笑したまま否定する。
困ったように、けれどもきちんと言い切って。
全く、我の強いこと。
やんわりとしながらも、譲らない意思が見える。
それは、どちらにも言えることである。
「ふらつきが残っている癖によく言うこと。ミアさん、きちんと支えてあげてちょうだいね。ああ、けれど、ニカノールが転びかけたならすぐにその手を離しなさい。躊躇なんて、しなくて良いから」
少しだけ憮然として、ルシアは毒を吐いた。
そうして、今度はミアに話を振る。
ニカノールに言っても駄目なら、周りに言う。
外堀を埋めるつもり満々だ。
今現在、ルシアたちは山を下りていた。
あのニカノールに突如として宿った力で王子の不調を消した後、黙々と作業をしてくれた周りにより、そう時間をかけることなく、出発が出来たのである。
あの力が医療特化であるのか、それとも様々なことが出来るのか、それについてはまた後日、調べるなり、試すなりするつもりである。
そうして、始まった下山。
ノックスや女騎士たちといった騎士が先頭と殿を担い、その次にイオンやフォティア、クストディオ。
そして、中央にルシアと王子とミアという貴人、非戦闘員であり怪我人のニカノールという構成の並びで斜面を下っていた。
時折、立ち止まるのは前に来た時に残した目印を手燭で照らし、確認して歩いているからである。
まぁ、無難な判断の結果だ。
さて、その中央を行く四人。
尤も、安全な位置として配された彼らをより詳しく説明するなら、ルシアと王子が人並びでその後ろにミアとニカノールという形であった。
そう、理由があって決まった訳ではなかったが、自然とそうなったのだ。
その結果、ルシアは出発時にミアへニカノールの腕を支えるように伝えていた。
坑道で立ち上がったニカノールを支えたようにして、歩いてほしいと言ったのだ。
それは別に本当にニカノールが転んだとして、転ばぬように耐えてほしいという意味で言ったのではない。
というか、ミアでは重心の傾いたニカノールを支えるなんてことは絶対に無理だ。
そのまま転げ落ちていくのが落ちである。
だから、それは彼女に役目らしいものを与えて、使命感を持たせて怖さを払拭させる為と、ミアがニカノールを、ニカノールがミアを補うことでそもそもの転倒を多少は防ぐことが出来るだろうと思ってのことである。
そうして、ルシアは告げたのだ。
ニカノールが転げたなら、その腕に添えている手を離せ、と。
「えっ、と...あの」
「ええ、俺の扱いが酷いなぁ...あ、ミアちゃん、そんな顔しなくて良いよ。俺が転んだら巻き込んじゃうから離してくれた方が良い」
案の定、というか、ミアは戸惑う。
まぁ、彼女にはそんな見捨てるような真似は出来ないだろうけども。
言い淀んだミアの代わりにニカノールが次いで、返事を返す。
けれども、ニカノールも本当の意味を分かっているから、結局はルシアの言葉に同意を示すのであった。
ミアはそれにもどう返事をして良いのかと迷ったようだが、ルシアに貴女まで怪我をする方が問題がある、と言われて、やっとハッとしたように頷いたのであった。
「......まぁ、本当に心配は要らないんだけどね。俺、この足場でも転んだりしないから」
「怪我人」
要らない心配とばかりに言ったニカノールへ即座に返すのはやっぱり、ルシアだった。
目を眇めて、単語だけをぶつける。
既に言いたいことは言った後なので、これで十分だと言うように。
「怪我はもう一つも、ないよ」
まるで、一貫していた否定の言葉の集大成かの如く、ゆったりとして静かに告げられたそれはいやに耳についてしまった。
ルシアはそっとニカノールを見る。
ニカノールは困ったように笑うだけでそれ以上は何も言わなかった。
そうしているうちに目印の確認を終えたのか、先頭を行っていたノックスの再出発を告げる声が届く。
ルシアはほんの少し、じっとニカノールを見つめたものの、前に向き直って、足を踏み出したのであった。
それは納得こそしていないけれど、可決してしまったことに対する態度そのものだということをルシアは気付いていないのだった。




