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669.下山準備とその力(後編)


そうっと、風が吹き去った。

それはそよそよと彼らの髪を、裾を揺らす。

ただ、とても軽い空気を揺らす程度のそれは木々の騒めきは起こさない。

音を立てない、無味無臭というには少し冷え切った鉄錆(てつさび)の匂いを(ほの)かに運んだけれど。

それはもう、静かな静かな風だった。


ルシアがそれを認識出来たのは(ひとえ)にここが静まり返っていたからである。

周囲では準備に後処理にと少なくとも、人の気配が揺れ動いているのに、その中でここだけが切り離されたかのように止まっていた。

ルシアも何度か経験があり、自分でも作り上げたことのあるその空気は誰かが動かさなければ、いつまでも動き出さない(たぐ)いのものだった。

そして、それはそれを作り上げた人物であることが望ましいことも。


ただ、空気に呑まれるかどうかは別の話である。

ルシアは第一声を譲り、当事者から外れながらも今の状況を読んでいた。

王子を見上げて、丸くした瞳はもう、そこにない。

推察して、幾重にも可能性を広げて、答えを探る者の顔をしている。

邪魔にならない程度に、けれども今、下がってしまっては逆に意識を引いてしまうからその場で視線を鋭く、王子とニカノールの二人を見ている。


「ニカノール......これは」


ついに王子が口火を切る。

まじまじと、自分の腕をニカノールを交互に見ながら、主語のない不親切な言葉で尋ねる。

横で見ているルシアにはちっとも分からない。

しかし、王子の顔は普段とは違って、何よりも彼の感情を物語る。

これは一体、何なんだ。

そう言いたげな、信じられない何かを見たとでもいうような顔でニカノールを見つめていた。

目の前のニカノールから答えを探すように。

中途半端に怪我した方の腕を持ち上げて、空を切った形で取り残して。

その指先は(わず)かに震えていた。


ルシアは解らず、眉を寄せる。

一体全体、ニカノールは王子に何をしたというのか。

あの手を(かざ)すという、その行為だけで何を。

何をこんなに王子を驚愕させているのだろうか。

そして、それに対するニカノールの解答はいよいよもって、選択肢を絞りながらも謎ばかりを生むものであった。


「――出血によるふらつきや不調を消したんだ。ほら、動きやすいでしょう」


「......!」


ニカノールは言う。

とても単調に。

自分のやってことでも、変化が起きているのは自分ではないだろうにそうなっているのが至極当然、といった顔をして、全く疑っていない眼差(まなざ)しで断言する。

王子はそれに目を見張った。

反射のように持ち上げていた腕を、その指先を動かす。

ただ、それは油の差していない人形のようにぎこちない。

かくんと音でも立てそうなほど、カチコチな動きをして、また固まる。


ルシアはニカノールの言葉を咀嚼(そしゃく)して、王子の驚きようを、その仕草を、ぎこちなさを見て、それら全てを並べ立て、点と点を結び、形にし、遅ればせながら彼らの会話を理解して、先程の王子と同じように目を驚愕に見開いた。

それ以外に浮かべる表情というものがなかったとでもいうように実に素直にルシアはそんな顔を作り上げたのだった。

信じられないものを見た、そんな顔を(さら)したのである。


だからと言って、失った血が戻った訳ではないから無茶は止めた方が良いよ、というニカノールの声は何処か遠くでしているようだった。

きっと、王子にとってもそう。

再び落ちた沈黙の中、ミアがおろおろとするのも遠くに見て、ルシアは考える。

答え合わせはしていない。

ルシアがそう思っただけで彼らのそれとは見当違いの可能性だってある。

けれども、ルシアは微塵(みじん)もそんな可能性はないとばかりに切り捨てて、思いを馳せた。

もし、本当にそうであれば大変なことだと思いながら。


だって、ルシアの中で行き着いたその答えはニカノールが王子の傷に手を翳すことで痛みを取り除いたというものだから。

ゲリールの民の治癒魔法でさえ、このようなことは出来ない。

あれは傷自体を治すものが主流で、それに付随した不調は薬によって治す方が彼らの一般的なのである。

薬学に精通している分、内科にはこちらの方が合理的であったからだと言う。

どちらかというと、外科特化。

尤も、この世界に根差している他の治療法に比べたら、その薬も対処法もずっと良質なのだけども。


医療の最高峰、と(なか)ば伝説扱いをされている彼らにも出来ないこと。

それを他でもないニカノールがやって退()けたという。

信じられない、と言いたくなるその御業。

表情がありありと語ったそれは心からの本心である。


どうして、とルシアは思わず、声を溢した。

ニカノールにはそんな力はなかったはずなのだ。

彼はそういった人離れしたとも取れる所業を起こせる力を持たない。

彼には魔法の素養すら欠片としてなかったはずだった。

ただの鍛冶師見習いでちょっと剣の扱いをかじっただけの普通の青年だったはずだ。


...竜玉、あれのせいなのか。

ルシアは呆然とそんなことを思った。

ニカノールにそんな所業を起こせるように変化させた何かがある、と考えたら、それが強烈に思い浮かんで、それしか考えられなくなってしまった。

あの治療に使った竜玉が、ニカノールの中に吸い込まれていったあの光の、エネルギーの(かたまり)が、こんなことを起こしているのか、と。

だって、奇跡なんて起こらないのだ。

現実はいつだって無情である。

そこに奇跡みたいなことが起きた。

それも二回も、起こったのだ。

関連性を疑わないでどうすると言うのだ、こんなこと。


「――どうして、なんて。そんなの、俺も分からないよ。でも」


「...でも?」


ルシアが無自覚に声帯を震わせた言葉をニカノールは丁寧に拾う。

噛み砕くようにゆっくりと情報としては全く役に立たない心境を吐く。

だけども、最後に不自然に切った言葉を、ルシアは続きが気になって、繰り返した。

果たして、ニカノールは何を言おうとしたのか。

それがどうしても気になったのだ。


「出来る、って思ったんだ。そう動けば、出来るって。......今ね、俺の中には凄く大きな力が宿っているみたい。まだ、十分には使えてないけど」


「いいえ!!」


ニカノールはそんなルシアの眼差しに小さく笑う。

そして、神妙な顔をして自分の作った握り(こぶし)を見つめながら、さらに深く(もぐ)ったところにある本音を語る。

最後だけ、眉尻を下げた苦笑付きの言葉であったけれど。

その瞬間にぎゅうっと握り直された拳をルシアは知らない。

それよりも脳からそのまま出たかのような否定の言葉を飛ばすことに手一杯だったのだ。


「わ、なに...」


「ニカノール!!」


「あ、はい」


突如、飛ばされた声の張られたそれにニカノールは面喰う。

だって、そんな言葉をかけられるとは彼の予想外だったのである。

周囲もよくよく響いた突然のそれに、何だ何だと手を止めて、様子を(うかが)っていた。

けれども、ルシアは止めらない。

ずん、とニカノールに詰め寄って、彼の名前を呼ぶ。

ニカノールはそれに圧されたかのように連動して、後ろに下がった。

ルシアはそれにも構わず、口を開く。


「...いいえ、いいえ!十分に凄いことよ!貴方は、とても凄いことをやったのよ!」


「!」


募るように告げられたそれに今度はニカノールが目を見開く。

まさか、手放しに褒められるとは思ってもみなかった。

そんな無垢な驚愕だった。

ルシアはそれににこりと笑う。

不敵でも、お澄ましでもないルシアの顔で。


「貴方の力で、貴方の手柄よ。貴方のお陰――ありがとう、ニカノール」


「――ああ、助かった。ニカノールのお陰だ」


「っ、うん。どう、いたしまして」


一語一句、浸透させるかのようにルシアは言い聞かせるようにゆったりと告げる。

言葉にはなかったが、誇りなさい、と喜びなさい、とそう言うのだ。

続けるように王子本人からも感謝されてしまえば、受け取り拒否はもう出来ない。

ニカノールはどぎまぎとぎこちない仕草で視線を彷徨(さまよ)わせながら、それらに対となる言葉を返したのであった。


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