661.窮鼠、猫は(前編)
あれだけ騒がしく、喧しかった雑多な音が掻き消える。
それだけで世界が一瞬、止まったような気がした。
でも、それはそう思っただけの気のせいで、実際には時が止まった訳でも世界が止まった訳でも、ましてや、その喧騒がなくなった訳でもない。
ただ、普通にしていても耳に付いていたそれらが頭に入ってこないほどに衝撃を受けた――ただ、それだけのこと。
それらは本当に瞬き一つするほどの合間に繰り広げられたことだった。
ルシアも頭で考えるよりも身体が先に動いたようなもので、他の者たちも皆、既にその行動を止めるすべがなかっただろう。
本来なら、そう思うよりも前に全てが終わっていたことだった。
ただ、あまりの状況にか、それともこれもまた、走馬燈の一種だとでもほざくのか、いやにゆっくりとじっくりとその光景は目に焼き付いて、身体に追い付く思考が今度は追い越し、身体が停止の合図に付いてこない。
そうして、出来上がった惨状であった。
「......ルシア、無事、か?」
「それは、こっちの台詞よ...!馬鹿!!」
噎せ返るような匂いを嗅ぐ。
元より、この場に一切なかった匂いだとは言わないけれど、それよりも濃厚でより近い位置で嗅ぐそれはまさしく、目の前の人物のものである。
汗の匂い、土の匂いと混じりながら尚、強烈に刺激するのは視界にもその赤が目に付いてしまうからか。
鉄錆の、その香りだけが温度すら持って、やけに鮮明に伝わってくる。
それなのに、絞り出したかのような声で問いかけてくるその人にルシアは目尻をキッと吊り上げて、至近距離であるのにも関わらず、声量調節なんてくそくらえで言い返すように叫んだ。
そのキン、と頭に響くような通る高音にその人――王子の眉が僅かに顰められる。
しかし、ルシアには知ったことではない。
何気に面と向かって言うことのなかった罵倒まで付けて、そのくらいにはルシアは怒り心頭だったのだ。
ーーーーー
「はっ、...!!」
イオンが短剣を振り被る。
それが目がける先は王子たちの包囲網を抜けることに重きを置いて、特攻を仕掛けて来た敵である。
いくら、あの恐ろしいまでの過剰戦力を小手先の技で素早さだけで掻い潜ろうとも最終防衛ラインたるイオンと正面から対峙して一対一で勝てる訳がない。
それこそ、王子たちの誰かを倒してきたのなら未だしもの話。
正直、言って相手にならない。
「イオン、左!」
「はい、はいっと!」
とはいえ、数で押されれば一人で捌くにも少々、難しいところもある。
一人、二人と乱戦に紛れて、零れ落ちるようにこちらへぽつり、ぽつりと向かってくる人影を薄暗がりの中でつぶさに捉えてはルシアはイオンへ指示を出す。
するりと口は言い慣れたように滑らかだ。
実際、こういう戦闘時の索敵、その位置を報せるのは何度となく、やってきたこと。
お陰様でその把握した敵影のどれから倒すべきかを言う順番などで調整することが出来るくらいには上達してしまっているである。
流れるように端的且つ素早く言葉にして放つのも、その声の通りを考えた適切な声量も既に無意識下でやって退けられるようになっているのだ。
今回、王子たちが前でそのほとんどを一掃してくれているのでこちらに回ってくる分はそう多くない。
今までにこれより余程、多い数を捌いてきた。
勿論、実際に戦うのはイオンたちであり、ルシアは指示を出して、邪魔にならないように立ち振る舞うだけなのだが。
然れど、気を抜くという訳ではない。
ないけれど、心地はどちらかというと少しでもイオンが動きやすくなれば、という手助け程度のものである。
因みに声音の迫力が見合っていないのは上記の通り、普段のそれが出ているから。
やっぱり、これではイオンの敵にはならないのである。
しかし、イオンは防衛戦に徹底した。
距離を取った敵は追わないし、様子を窺うように剣を構えながらも近付いてこない敵に先制を仕掛けることもない。
向かっていったところで負けることがなかったとしても、だ。
簡単に倒せたのだとしてもイオンは深追いなんてせずに忍耐強く、ほぼ所定と決めたらしい坑道の入口その正面真ん中、その位置から動かない。
尤も、鍔迫り合いまで迫ってきた敵は逃げ切るよりも前にイオンによって狩られているのでそういう意味でも動く必要はないのだが。
これら全部、ルシアたちを守ることを最優先にしていると言うのだから、イオンの常日頃からのただ戦うのではなく、背後に誰かを庇って戦うそのスキルの高さが伺える。
ルシアとイオンが投じた一石。
それは見事にこちらに都合の良い働きをしてくれた。
場の乱れ、それが味方の、ルシアからのものであることを知った王子たちの方が立ち直りはやはり早く、何よりそんな突拍子のない事柄には何故か、慣れのある彼らなので戦況の天秤はぐらりと傾いた。
平行を保っていたそれは一度、揺らいでしまえば、後は案外、脆いもの。
一気に角度がきつくなる。
そうなれば、士気にだって影響がで始め、さらにきつく、きつく。
持久戦。
片や体力、片や残機の消耗戦。
その形相が様変わりする。
これはもう、どちらが有利か明らかだった。
しかし、敵もただやられるだけではない。
これが、戦意を無くし、挙って逃げるのならこちらとしては楽な話だった。
こういうものは芋づる式に伝染するものだから、一人逃げれば一人、また一人と逃げ出すものだ。
他にも逃げているやつが居る、そういう心理が働くから。
それで多くが駆け去ってくれれば楽だった。
何も、ルシアたちは敵の捕縛を絶対の目的としていない。
まぁ、話は聞き出すに越したことはないので一人、二人は残してもらいたいが、それなら十分過ぎるほどその辺に転がっているので後は逃げ出してもらっても良かったのだ。
だけども、こんな状況下であれど、逃げずに立ち向かう者が居る。
それはまるで、怖いものから目を離せば、何が起こるか分からないと言ったもの。
決して、勇気を振り絞って、というものではない。
逃げる者とそう変わらぬ精神状態で向かってくるのだ。
はっきり言って、理性による制限すら外れていることもあるので忽ち厄介な部類に転じる。
窮鼠猫を嚙む、死にかけや追い詰められた者ほど火事場の馬鹿力。
その上、今回の敵たちは逃げることを立ち向かうことよりも恐怖を感じるような何かがあるのか、鬼気迫った顔をしてでも逃げないのだ。
この場でまだ地に伏せていないその全てが鼠であった。
笑えない話だ。
「イオン、伏せて」
「お、っと。さすが、クストディオ」
ほんの少し、弱まっていた猛攻が強まった。
指示を出すも捌き切れない、そう思ったその瞬間、飛び込んできたのはクストディオであった。
いつの間にか、イオンの横まで駆け寄って、その勢いでしゃがませたイオンの頭上を飛び越えて、背後に迫っていた敵を蹴り飛ばす。
細身に見えるが、このクストディオという男は割と強靭なのである。
体格による力強さよりも柔軟なしなやかさを活かせる細身であるからこそ、その蹴りは撓って威力を嵩増しする。
そうして、軽やかに着地を決めるクストディオはまるで猫のよう。
イオンがその手際の良さに感嘆を吐く。
クストディオはそれには答えず、イオンの隣で正面へ向き直し、暗器を構え直した。
こういうところも含めて、クストディオらしい。
イオンの軽口もその対応も含めての通常運転である。
「クスト!貴方も居たのね」
「途中で合流した。ノックスも」
ルシアは比較的近くまできたクストディオに背後から声をかけた。
ルシアが気付いていなかっただけで、その密偵ならではのスキルを活かしてこの戦場を駆けていたに違いない。
闇夜に紛れられれば、さすがのルシアも見つけられない為にここに現れるまでクストディオが居ることに気付かなかったのだ。
ルシアの声に振り向きもしないし、素っ気ないことこの上なかったが、返答が返ってくる。
きちんと情報まで齎してくれる辺り、本当に優秀な密偵である。
きっと、あの人気のない通りに倒れ伏した死屍累々を見て、何かが起きていることを悟って動した結果、ノックスと鉢合わせたのだろう。
多分、王子たちも同様の理由からの参戦のはずだ。
ルシアの位置からその肝心のノックスは見えなかったが、クストディオがそういうなら丁度、死角となる位置で無双していることだろう。
「...!そう、――右に二人!!」
「分かった」
ほっと一息、再びクストディオに声をかけようとして、ルシアは視界に映る敵影に気付く。
ここは戦場、気を休ませる暇は、ない。
会話を途切れさせ、突然の指示。
しかし、クストディオは慌てることなく、鷹揚に頷いて、駆け出した。
イオンが居るからクストディオまでこの場所に張り付く必要はないのである。
そうして、あっという間に頽れる二つの影。
猫もまた、ただでは鼠にやられないのだ。
結局、1時で申し訳ない...。
でも、ぞろぞろ集まってきたね!




