647.そのトリガーは(後編)
「イオン、それは、どういう......」
ルシアは大いに戸惑った。
自分はまだ呆けているのかと思わず、己れの頬を抓りたくなって、困惑に眉を顰めてイオンに問い返した。
だって、あまりにも唐突だった。
そして、あまりにもルシアたちに都合の良い言葉だった。
いくら、今まで死線を共に駆け抜けてくれた最も付き合いが長く、こういった時にそんな性質の悪い嘘を吐かない男だと知ってはいても、そのまま鵜呑みに出来ないくらいには今、ルシアたちが最も望む言葉であったのだ。
人は単純な生き物である。
そして、同時に深読みをしてしまうのも人間である。
特にルシアのような人種は色々な可能性を考える。
それだけ用心深いということでもあるが、考え過ぎも時間のロス。
時には馬鹿で素直が一番、速やかに事を進めてしまったりする。
まぁ、要するにこれはルシアにとって、美味しい話だけれど、本当に何も考えずにこのまま食い付いても良いものか?ということで。
そんな考えが条件反射のように過って、一旦の停止を繰り出してしまったのである。
もう少し、きちんと冷静に頭を回せば、イオンから出た言葉であるというところにもっと信頼性を抱いても良い、と判断するのだが、如何せん失敗を恐れて先に防衛線を張ってしまうのも人間であるが故に。
「分かりません――が、そんな気がするんです」
反射的に繰り出したルシアの問いかけに返されたイオンの答えは酷く曖昧なものだった。
根拠の一つもない、怪訝に思われても仕方がないもの。
当然、ルシアも声にこそ出さなかったが、顔にそれを表した。
だって、あんなにはっきりと宣言しておいてそんな頼りにもなりそうにないことを言われるとは誰も居ないだろう。
それが普段から冷淡なほどに理詰めを好むイオンが口にするのなら尚更のこと。
でも、ルシアは即座にそれを拒否しなかった。
ふざけるな、と窘めるでもなく、荒唐無稽だと切り捨てるでもなく。
それは偏にイオンのその言葉が酷く曖昧であったのに対して、その声音もまた先の宣言のようにはっきりとしたもので、何処か自信が見受けられたのだ。
自分で何を言っているのか、分かってもいないような顔をしながら、ただただ出来る、という確信だけがあるのだと今にも言い出しそうなその顔がルシアの決断を一時、待たせたのである。
ルシアもまた、時にそのような確信を得て、説明らしい説明もなしに最早、衝動的に駆けていくことがあるから今のイオンの抱える心地が手に取るように分かったのだ。
俗に言う、説明は出来ないけれど。
何とも神妙な心地にさせるそれは心の向くままに従った方が良いというのは経験則。
ルシアはそれを、虫の知らせのようなそれを、本人すらも自覚出来ぬ本能が捉えた結果だと思っている。
本能は本能であるが故にその直感というものは馬鹿にならない。
ルシアも理詰めを好むが、あれはあくまで理由付けの解りやすくしたものであるとも心の隅の方で思っている。
だって、根本的な事柄というのはいつだって、何であろうと理由なんてわざわざ繕わずとも罷り通ってしまうものなので。
普段、自分がそれを周りに許容してもらっていることもあり、ルシアはじっくりイオンを見返した。
イオンは二の句を繋がない。
ただただ、ルシアへ向けてあの生きた宝石を突き付ける。
だけども、そこに縋るような色はない。
認めさせようと、自分の思い通りにしてもらおうとする気概もなければ、傲慢もない。
ただただ、ころころと変わるルシアの表情を見据えていた。
いつの間にか、分かりやすくなったその感情を読み取っている。
黙秘権とも言うが、こういった場合の沈黙は肯定である。
ずるい言い方をするならば、否定出来なかった時点で選択肢は一つなのだ。
だからなのだろう、イオンはそれ以上を言わなかったし、ルシアに許可を求めなかった。
宣言だけを残して、視線をふいにルシアから外す。
明確な意思を持ったそれは逸らされたというより、他のものへ視線を移したと言う。
ルシアから己れの手中に納まる竜玉へ。
ルシアが止めないと、詳しく説明をしたところで基本的に僅かな可能性であっても他に有効手がないのなら、それを試すだけ試してみるのは悪くない考えるルシアを知っているイオンは徐に行動に移すことにしたのだ。
だから、実行しようとまずはそれを見た。
視野を広くしようとも、見ようとする視線は一つだ。
取捨選択、何事も見なければ、意識を向けなければ始まらない。
視線がそれに向いたその時点が、スタートなのだ。
そうして、ルシアはイオンの思惑通りにそれを止めない。
追い付いた思考に今尚、回す思考。
そのどちらも逐一、イオンの行動を追っている。
無駄を弾いて、このままやらせることのメリットと実際の様子を窺っている。
何かあれば、止められるようにという意味もある。
それはつまり、取り敢えずはやってみろ、というのと同義だろう。
「......!」
だが、イオンの次の行動にルシアは息を呑んだ。
ミアからも驚いた気配がする。
当然だろう、まさかここでそれが出てくるとは全く思っていなかったのだから。
しかし、ルシアはそれだけで止めることなく、見守ることを継続させた。
それはそれが無関係とは思えなかったからである。
まるで、この時の為に入手した物だとでも言わんばかりの顔で出て来たそれは確かに役目を果たそうとしているように見えたのだ。
視線を竜玉に移して、次にイオンがしたのは手元からあるものを取り出すというものだった。
そちらには視線を向けず、器用に取り出されて空いた掌に乗せられ現れたのは紫水晶――彼のブローチ。
紫と青、色味は全く違うし、下手をすれば喧嘩をする。
だけども、一人の男の掌の上に比べられるように乗せられたそれはまるで対のように同じ光量で輝いていた。
――そう、イオンの取り出したブローチも竜玉と同じように仄かな発光を見せていたのだ。
紫の、光を放って揺蕩う色合いはまさに黄色を除いた今のイオンの瞳のそれ。
脈動さえ聞こえてきそうな、それは呼びかけ合うように緩やかに光の強弱を付ける。
何か意味がありそうだとは思ったけれど、もっと情報収集などにおいて、隠されたまたは忘れ去られた過去について知る為の鍵だと思っていた。
こんなに物理的に干渉してくる物だとは思っていなかったのだ。
どちらにせよとも、これは鍵だった。
鍵だった、と言える。
イオンはそれらを掌の上に乗せたまま、竜玉をニカノールの方へ差し出した。
そうして、ニカノールの心臓の上でそうっと傾ける。
掬った水を少しずつ溢していくように。
普通なら、そんなことをすれば竜玉は重力に従って、地面へ向かって落ちるはずだった。
そうなれば、ニカノールの心臓に直撃していたことであろう。
それは何の仕打ちだ。
そうして、球体の竜玉は形のままに転がっていくはずだった。
――しかし、実際はその竜玉はイオンの掌があった位置で、ニカノールの頭上で、空中で、落下することなく留まった。
重力などないとでも言うように浮かぶ。
滞空する。
ルシアは改めて目を見開いて、それに見入った。
驚かずには居られないだろう、これは。
光が少し強まった。
お陰で玉というには不確かな輪郭にそれはなる。
泉の中で見た光の塊というに相応しい姿に、なる。
まさに物語で読んだ竜の力そのもののようなそれはこの場を支配する。
そして、それを思うように操っているかのようなイオンへ主導権を握らせる。
「セラピア」
唐突にイオンが言った。
残った方の手を、ブローチを竜玉の上に伸ばした手の中に包み込んで、まるで呪文のように。
呼応、する。
指の隙間から強い紫の光が溢れ出る。
そして、カァッと光ったのは果たして、何色だったのか。
強烈な光に襲われて、何度目かとなる視界を奪われるその傍で。
ルシアはゆっくりと下降する竜玉とただただ無言無表情でそれを見下ろすイオンの姿を捉えたのであった。




