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644.童話のような奇跡を望む(後編)


「――、......」


ルシアはするりと(ひたい)に乗せた手を滑らせる。

ニカノールの(ほお)を撫ぜた。

掠り傷がボロボロになったルシアの指先と引っ掛かる。

温めるようにルシアはニカノールの頬を包んだ。

気休めにもほどがあるけれど。


どうすればいい。

どうすれば、ニカノールを助けられる。

目の前でまだ息づくその命を、何よりも協力を惜しまずに手を貸してくれた青年を、年齢よりも幼い顔で鍛冶師になるのだ、と笑った彼を救うには。

心の臓が立てる音を逃さないように目で追いながら、ルシアは全神経を用いて、考える。

むざむざ死なせてたまるか、という気迫の下で。


ルシアはミアのように起きて、なんて声をかけられない。

(なげ)くことも、取り乱すことも出来やしない。

現実逃避をしようとも、それはその現実を正確に把握しているからなのである。

だからと言って、治癒師でもないイオンにどうにかして、と言うことも出来ない。

現実性のないことを、ただただ望むようなことは出来ない。

今もルシアに呼び咎められて、固まったミアが(せき)を切って止まらなくなった涙を流しながら呆然と、駄目、生きて、死んじゃ駄目、と繰り言を口にするようには、ただただ祈るように神を(あが)めて奇跡を願えない。


幾度と戦場を駆けた少女は命の重さを知っている。

誰かにとって、大事な誰かだと知っている。

そして、一生懸命に生きようという伸びゆくものだと知っている。

ただの数字ではなく、名前でもなく、その数だけの過去が未来があることを知っている。

それが味方でも、敵であっても。

簡単に失わせてはならないものであるのだと。


けれど、幾度と戦場を駆けた少女は命の呆気なさもまた、知っている。

その一瞬で掻き消されてしまう灯火が人一人の命であることを知っている。

誰がそれを拒もうとも、散る時には散ってしまうものだということを知っている。

それもまた、敵味方は関係ない。

明日は我が身と言うように、自分の周囲の人間にそれが訪れることだって、度外視しているだけのことで何ら可笑しくないことなのだと――知っている。


故に願えない。

故に祈れない。

奇跡なんて、起こりはしない。

それがあるのなら、もっと早くから助けの手が差し伸べられているべきだ。

世界はそんなに優しく出来ていない。

残酷なほどに不平等で平等なのが、世界だった。

それをルシアは嫌と言うほど知っている。

だから、ルシアは現実的に方法を探す。

状況を打開出来る方法を探す。


「......っ」


けれど、今のルシアたちに出来ることなど、ほとんどないに等しかった。

思わず、唇を噛んでしまうほどには太刀打ち出来る手札は底を尽きている。

それが、現実。

ミアのように嫌だ、嫌だと泣き(わめ)く本能だけがその(ことわり)に逆らおうとしている。


「――何とか、ならない、んですか。ルシア、さん、私は、嫌です。ニカノールさんが、死んでしまう、なんて。ねぇ、イオンさん、どうにか方法は」


「......」


ルシアの苦い顔を見てだろう、ミアは懸命に(すが)るように言葉を吐いた。

今までみたいに意見を出し合えば、答えも見つかるのではないか、とそんな顔だった。

眉を精一杯に下げて、自分じゃ何も出来ないからルシアとイオンに話を聞こうとする。

その根底は決して諦めないという足掻(あが)き、またの名を希望を失わない強固な意思。


――もしかしたら。

もしかしたら、とルシアはそんな光をミアに見た。

はらはらと泣いて赤くなった顔で、涙に濡れて溶け出してしまいそうな目で前を向く姿は本来ならば、みっともないと言われるはずのその姿がとても美しくて。

ああ、ミアが言うならば、と。

他でもないヒロインがそう望むなら。

世界の中心たる彼女が望むなら、奇跡だって起こせるのかもしれない、と。


だって、王子以上にこの子はこの世界の愛し子だ。

蝶よ花よと明るく綺麗な世界で生きて、幸せに幸せに生きて、死ぬまで不幸を知らずに愛されることこそが、ミアなのだ。

この世界のヒロインのあり方なのだ。

そのヒロインが、望むなら――。


ニカノールはルシアと通してではなく、ミアと知り合っている。

つまりは彼が作中では出てこない端役ですらなかったとしても、個としてミアと繋がりが出来たということである。

ルシアという悪役からの紹介ではなく、ニカノールがミアの知人でもあると認識されていたならば。


――勿論、そんなのは到底、判断の付くことではない。

けれど、その可能性をルシアは何度と見てきたのも事実であった。

ミアの、ヒロインの良いように進んでいくこの世界を知っている。

それを知っているのなら。


「ル、ルシアさん...?」



ルシアはばっと顔を上げた。

その勢いにミアが驚き、イオンが怪訝そうに片眉を持ち上げるが、ルシアは無視をする。

そうして、最初にイオンを、次にミアをじっくりと目を合わせるように見た後に口を開いた。

灰の瞳に光が灯る。


「――わ」


「――お嬢、なんて」


ルシアはほとんど掠れた息のように言葉を紡ぐ。

それは自分の決意を確固とさせる為のもので周囲の二人に聞かせようとしたものではなかった。

だからなのだろう、聞き取れなかったイオンが聞き返すように言葉を紡ごうとした。

それがふいに途切れたのはルシアがふわりといっそ可憐に微笑んだからだ。

この場に、この状況に全く似合わぬ笑みを浮かべたからだ。

だが、ルシアは笑みを納めない。

勝気な目をして、二人を射貫く。


可能性があるのなら。

それを掴み取るまでのこと。

待つなんて、縋るなんて、してやらない。

(みずか)ら引き寄せてみせる。

生憎、ヒロインでも何でもない悪役令嬢なのだから、そのくらいの強欲を発揮してやろうじゃないか。


出来るかじゃない、やるのだと。

そう言ったのは他でもないルシア自身。

生きているのなら、死なせない。

そう、これは至極簡単なこと。

決して、簡単ではないそれをルシアはそれ締め括る。


「ニカノールは助けるわ――絶対に」


「!」


今度ははっきりと聞かせる為にルシアはそう言った。

イオンが、ミアが目を見張るのを見ながら、ルシアは口角を上げる。

どんな無理難題だって、やってやる。

何処かの誰かに願うでもなく、祈るでもなく、ただそう自分自身に誓うから。

そう思った瞬間だった。

その意思を形にしたならば、こうなのだろうと思うほどの全て吹っ飛ばすような光が、青が視界を埋め尽くしたのは。


「!?」


「お嬢!!」


突然のそれにミアが目をさらに丸くしたのが、ほんの少しだけ見えた。

はらりと最後の雫が落ちるのも。

イオンは切迫したような声で腰を上げるも、ルシアとの間にニカノールが横たわっている為に動きに遅れが出ていた。

辛うじて、腕を掴まれた感触をルシアは感じた。


「え、なに――」


ルシアは呑気なほどの声で目を(すが)める。

(まぶ)し過ぎる根源、よく見ればそれはルシアがずっと手に持ったまま離さなかった、竜玉、であろうと目される泉の中央に鎮座していた件の光の(かたまり)であったのだった。


まぁ、この物語はハッピーエンドを目指す物語であり、ハッピーエンドの物語なので。


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