638.そのタイミングや良し
※今回はミアの視点となります。
「ルシアさん...!ニカノールさん...!」
暗がりの中で、言われた通りに中からは見えぬ位置まで下がって、蹲る。
何があっても、敵がこの洞窟に入って来ない限りは絶対にここから動くな、と言われたから。
真摯な瞳で射貫かれたから。
足手纏いになるのも分かっていたから、とても頷きたくはなかったけれど、それは迷惑になってしまうとも分かっていたから。
そうする以外、なかったから。
だから、どう見ても危険なそこへ向かっていく二つの背中を唇を引き結んだまま、見送った。
だけれど、気になってしまうから出来るだけ敵に見えないように身を低くしたまま、目を凝らして中の様子を見ていた。
壁に手を突きながら、覗き込むように目前で繰り広げられる戦いのさまを恐怖しながら、目を一度たりとも逸らさずに。
いや、あれはもう、目を離せなくなっていたと言っても良い。
そのくらい、震えながらもまるでその光景を焼き付けるかのように凝視をし続けた。
本当はそれも絶対ではないから二人を困らせてしまう行動なのだろうとは思いつつ、どうしても止められなかった行動。
ミアなりに一生懸命考えて、見つからないように対策を取って、起こした行動。
何も知らない貴族令嬢のそれは正直なところ、あまり精巧とは言えなかったが幸い、敵たちは自身の周りのことで手一杯らしく、ミアの元まで来るような様子を見せるものは居なかった。
見えていたら、さすがのミアももっと奥へ下がっていたことだろう。
まぁ、ミアが気付いた時点では手遅れかもしれないけれど。
だから、その光景を見てしまった。
本来なら、不安になりながらも聞こえてくる喧騒だけに怯えていただろうに。
約束を破って、見つかる危険を冒して、それでもその衝動に駆られるまま、見ていたから。
その光景を――敵の一人が形振り構っていられなくなったのか、それともこの常識外れの存在との戦いに混乱を来してしまったのか、腕を番人と呼ばれる存在に噛み付かれることも意に介していない様子で突き進むように一直線に駆ける様子を。
ニカノールがその狂った者の繰り出した刃からルシアを庇って、斬り伏せられるその瞬間を。
ルシアが歪んだ顔でニカノールの名を叫び、共に頽れるようにして、泉の中へ落ちるさまを。
盛大な、周囲を水浸しにしかねない勢いで立ち上がった水飛沫を。
その一部始終、その全てを見てしまったのだ。
駄目だと分かっているのにミアは悲痛にルシアとニカノールの名を呼んだ。
咄嗟に駆け出そうとして、その場へ向かおうと身を乗り出して、足に力を入れたのは一瞬だった。
まるで、身体の自由を奪われたように足に力が入らなくて、ぺたりと座り込んでしまった。
辛うじて、動く手を震わせながら、口元を覆ったのは無意識だった。
尚も動かない身体は震える手を持ち上げるだけでも億劫だった。
涙が滲む。
動けない――もし、身体が自由に動いたとしても、多分きっと。
そう思うのはあのルシアとニカノールさえ、その驚異的な連携で何とか賄っていたこの乱戦の中にはミアはどうしたって、入っていけないからだ。
まず間違いなく、彼女らの元へ辿り着かないと断言出来るからだ。
一歩、踏み出したその瞬間に襲われて、死んでしまう。
そのくらいには非力で、何の力も持たない。
恐怖にも打ち勝てない。
なんて、情けない。
そう思ったって、何も出来ない現状に泣くしか出来ないのが、悔しくて。
でも、泣いたら何とかなるなんて全く現実的ではない甘えを見せるようで、それはとても嫌で、必至に目尻に溜まっていくそれを雫にしないように堪えて。
代わりに引き結んだ唇を噛んだ――その時だった。
「っ!?」
轟くような、全ての音を掻き消してしまう轟音が響き渡ったのだ。
ミアはあまりに驚いて、身体を跳ねさせる。
吃驚して目を見開いたまま、音のした方を、前方の乱戦――ではなく、己れの背後を、その先の暗闇を見やった。
突然の轟音に驚いたのはミアだけではなかった。
ミアの前方で戦い合っていた追手も番人たちでさえも向かい合ったままで動きを止めたのだ。
その音は完全にこの場の全ての時を止めてしまっていた。
――とても長い間、時間が止まっていたように思えた。
もしかしたら、ほんの一瞬の合間だったかもしれないその沈黙。
全ての視線が一か所へ集中するさまをミアは最前列であるが故にその全容を知り得ない。
ゆらり、と音と共に立ち込めた土煙が影を濃くする。
途中であまりの煙たさに咳き込んでしまったし、違う意味で涙も出たけれど、ミアは向けた視線を逸らすことをしなかった。
どうやら、それは人の形をしているように見える。
やがて、それは色を付けて現れる。
ゆらり、揺れたのは紫色。
だけれど、ニカノールの藤の薄い花弁のような色ではなく、もっと濃くて、黄色の混じった不可思議な揺らめきを見せる鮮やかな色。
一対のそれが周囲を染め上げる鉱石の放つ淡い青にも負けずに強く輝いていた。
「――さて、うちのお嬢を誰か」
知りませんかね、と一人、張り上げるでもなく通る声で言ったのは状況から察するに先程の轟音を起こした張本人。
まるで、獣のように鋭く、そして底冷えするような瞳を晒しながら、その人物、イオンはゆっくりと石像のように固まる周囲を一つの景色を見渡すように見やった。
いつも物腰柔らかく、大人らしくさり気ない手の貸し方が完璧で何より、ルシアがとても信頼しているのだろう従者としての顔しか知らぬミアは全くの別人のようなイオンをただ下から呆然と見上げたのであった。




