635.ピンチは好機に(後編)
「番人が放たれている。追手もやって来てしまっている。そして、彼らの戦闘が繰り広げられているその中心にあの泉はある。どれほど危険なことなのか、火なんて見なくたって赤子でも分かるでしょうね」
たった一言でこの場の空気を支配したルシアはその一瞬の停止を見逃さずに口を開く。
そうして、ルシアが次に紡いだのは本来の基本的な流れであれば、利点であるのが普通の人の考える帰結であろう。
しかし、ルシアが並べ立てたのは猛反対される理由にはなれど、快諾なんて夢のまた夢のような欠点の乱舞であった。
ああ、こうして言葉として並べられてしまえば、どれだけとんでもない発言であったのか、ありありと分かって、ニカノールは余計に頭が痛くなったとばかりに顔を顰めさせる。
「――だったら」
「でも、これを逃せば、あの泉へはもう近付けないでしょう」
「......」
ニカノールは気乗りしない様子ながらも反論を試みたのか、ルシアの言葉に乗ろうとした。
本人が言い出してくれたのだから引用する。
もし、今のニカノールの立ち位置に他の誰かが居たとしてもその大体がそうしただろう。
ニカノールも例にも洩れず、そうしようとしたのだろう。
だが、それは早めにルシアによって遮られる。
ニカノールはそれに驚かない。
半ば、そうなるだろうと分かっていたからこその気乗りのしない様子であったらしかった。
「番人が居る以上、私たちはあの泉へ近付けないでしょう。確かに逃げ切れるかも分からなかったところから一応の安全確保が出来るところまでやって来れて、わざわざ舞い戻るほどの愚行はないわ。けれど、逃げてどうする?帰らずの魔法がある限り、出られないのにどうするの――なんて、それでも飛び込む選択肢を強引に推し進めた私の言えたことではないのでしょうけれど」
黙り込むニカノールを前にルシアは場を譲ってもらったとばかりに朗々と再び語り出した。
既にここはルシアの独壇場に他ならない。
自嘲するような言葉を挟みながら、口調はいつしか挑むようなそれへと変わっていく。
瞳はとうに炎の形をしていた。
果たして、それは鏡となり得るだろうか。
「私はもし、ここに何かがあるのだとしたら、あの泉の中央にあると考えるわ。竜玉、にあると考えるわ。帰らずの魔法も番人もその制御そのものではなくとも、動力源、若しくは何らかの補助として、少なからず関係していると踏んでいる。それなら、あれをどうにか出来れば変わるものもあるはず。
たとえ、それが心臓でなかったとしても森羅万象何であれ、何かが欠けてしまえば正常には動かないのだから。見た目には機能しているように見えてもその綻びは消えやしないのだから。ならば、改めてそこを突けば良い。そして、それを実行するには追手によって番人の気が逸れている今が最も好機であるはずでしょう」
尤も、番人がこちらを放置する訳ではないのはこの洞窟へ飛び込むまで追いかけてきた様子から実証済みであるので、危険がない訳ではないし、泉に近付けば近付く者ほど優先的に狙うようになっているのかもしれない。
そうでなくとも、追手たちにも近付く行為。
遠ければこその余裕である以上、どさくさ紛れにその魔の手が伸びないとも限らない。
欠点だらけだ、誰がそれをしようと言うのか。
正気じゃない。
でも、ルシアはそう声を上げる。
説得よりも懇願よりもニカノールのものよりもそれは咆哮だった。
後がない、なんていうのは事実だけれど、建前だ。
ただ、そうせよという唸りが己れの内にある。
少なくとも、ルシアはその叫びを警鐘を聞いている。
聞いて、しまっている。
「ねぇ、試す価値はあるのではない?」
命の危険は十分。
だけども、その上でそれを告げている。
命を懸ける覚悟を、とは言わない。
ルシアは無責任や無神経と言われるのを承知でそんな覚悟を今までに意識して持った記憶はない。
ルシアに危険に飛び込んだ記憶はあっても、土壇場であろうと最後まで足掻く性質であるからこそ、死を視野に入れたことはない。
冗談交じりに余裕があってこそのそう思うことはあっても、本当にぎりぎりの綱を渡って、ひやりと洒落にならない汗を掻いたことはあっても、不思議とそれらを何処か客観的に見ている自分が居ることをルシアは知っている。
それが転生なんてものをしたからか、創作物としてのこの世界を知っているからか、または全く別の他の理由からくるものか、当の本人は気付いていない。
そして、それは死ぬまで気付かないのだろうし、死んでも治らないのだろう。
きっと、最期の時までルシアはそんな決死の覚悟を本当の意味で持ち得ない。
何より元来の話、ルシアの生きていく上での指針はただ生きること、だ。
生きていく上で自分のしたいように、心から自由に生きられるように。
最初の最初からそれがルシアの最終目標である故に何としてでも、どんな状況、どんな場所であろうと、何をされようとルシアは何より誰より生にしがみ付くことだろう。
それは本能か、それとも死を経験したよみがえりだからこそか。
実はこの時、ルシアは二人の首がついに横へ振られても、一人でこの場を飛び出す心積もりであった。
勿論、あの敵だらけの中、それが一体、どれだけの無謀か漠然と思い浮かべたとしても容易に分かってしまえるくらいのものだというのを理解している。
それでも、飛び込んだだろうし、抵抗する。
我武者羅に抗う。
泉にさえ、あの竜玉らしき光にさえ、手が届いてしまえばそれで良いのだと。
人はこれを命懸け、とその覚悟ある行動であると言うことをルシアは致命的に理解していない。
たとえ、直に聞いたって、他人がそれしていれば一も二もなく、頷くことを自分に置き換えた時に正しく認識出来ないのがルシアであった。
成程、周りが過保護になる訳である。
敏いのに、そこだけは分かっていないのがルシアであった。
「――分かった。ただし、俺も行く。敵の攻撃は俺が受け持つ。これだけは譲らないし、譲れない。これが絶対条件だ」
「ええ、それで良いわ」
だから結局、周りが折れることとなる。
だって、言ったところでルシアは理解しないのだから。
まるで、本の中の世界を見ているかのように言葉では呑み込んでも根本的な部分でその通りの行動が出来なければどうしようもない。
変えられないのなら、周りが順応するほかない。
順応して最低限、その無謀の難易度を下げてやるしかないのだ。
ニカノールはルシアの護衛たちが通ってきた道を従順なほど辿り、そこに行き着いた。
その結果が心底、嫌そうな渋面を作りながらの了承と聞いてやる分の請求とばかりに条件を出し、守らせること。
多少の強気は何としてでもこれだけは破棄させる訳にはいかないから。
そして、ルシアはこの手の交換条件をまず破棄することはない。
やりたいこと、したいことに差し支えるからだ。
「...じゃあ、策戦会議だ。少しでも、立てられる予測は立てて対応を用意しておく方が良いからね」
「勿論、そのつもりよ。まず、番人の反応を見るに――」
ふっと重いため息を吐いて、漸うと乗り出したのはニカノールであった。
ルシアが折れないのをまざまざ実感してしまって、どうしようもない心地で居るのを押して、それでも次に繋げようとしているのはそれがルシアに対しての対応としても最善手だと気付いたからである。
無謀という大きな穴を塞ぐ為に、ニカノールは事前に出来ることをやり切る、そういう気持ちが芽生えていた。
最早、行動内容そのものより重要なことだ。
こうして、再び目前のドーム型のその空間へ踏み入れるという策戦が現実味を帯びて、実行されようとしていたのであった。




