617.一進一退のその攻防
実はイオンが荒らされた後のセルゲイの店で彼の老爺に会えたのは本当に偶然であった。
王子たちよりも一足遅くやってきたイオンとルシアたちを見送った後に敵の襲来を警戒して店から離れていたセルゲイ。
イオンが辿り着いたそのタイミングでセルゲイが戻ってきたのは本当に偶然だったのだ。
イオンのことだから、セルゲイと会わずともあの場の惨状を、ルシアの性格を考慮して動けば、結果として深山へ向かうというその後の動きに変化はなかっただろう。
けれども、セルゲイに会えたことでより詳細を確定として知ることが出来たのは運が良かったと言えるだろう。
お陰で行動がより迅速に出来たということもある。
これは本当にタイミングの良かった話であった。
この時、既に山へと辿り着くところだった王子たちの方はセルゲイと会うことなく、すれ違いを起こしている。
少しでも情報を得る為に当然の如く、セルゲイの店へと彼らも立ち寄った。
しかし、自分たちを迎え入れたその場に残る血溜まりを見て、それを作り上げた主が痕跡から店へ飛び込んできたと予測出来るところを、早急に治療したにしては充実して、そこここに散らばっている道具や布や包帯、薬を見て。
――それらが全て泥棒にでも入られたのかと思うほど傷だらけ、泥だらけ、乱雑に散らかされた室内を見て。
ニカノールだけではない、ルシアとミアもここに居たのだと。
そして、敵もまた鉢合わせこそしなかっただけでここにやって来たのだと。
誰も居ないその場所にそれこそこの惨状だけで全てを精細に考察し、既に出立していた三人を彼らは追いかけたのだ。
それをまた、イオンもセルゲイも知らない。
ただ、後に聞いたとしても驚かないくらいには全員が全員、想定出来る動きであった。
ーーーーー
「ミアさん、ニカ。――動ける?」
「はい...!」
「うん、行けるよ。さすがにこれ以上、一か所に留まるのも良くない」
充分な休息を取ったところでルシアは閉じていた瞼を持ち上げ、横並びに座る二人に声をかけた。
目を開いたところで視界は変わらず、暗闇の中だ。
だが、辛うじて見える周囲に気を配りながら見やれば、蜂蜜と藤の花の双眸が強い意思を宿して、頷いたのが映った。
ルシアが悪いと思いつつも二人の返事を鵜呑みにしない。
けれども、ニカノールの言うことも尤もであり、ルシアの目からも先程までよりかは精神的にも回復している様子の二人を見て、ひとまずは動けるだろうと判断を下す。
何事も十全であるべき、しかして動ける時に動くべき。
とはいえ、ちょっとでも二人の体調などが悪化しようものなら、ルシアはすぐにでも対処する気満々ではあったが。
正直、今の時点で無茶を強いている自覚を持っているルシアである。
だから、本当は置いていきたかったのだ。
きっと、これを口に出せば心外だ、と彼らは憤慨することだろう。
自分で選び決めた道なのだから、とたとえルシアでも口出しする権利はない、と怒っただろう。
だからといって、ルシアが罪悪感を心配をしない理由にはならないけれど。
「――そう。なら、このまま北東へ向かうわ。まだ山を登ることになるけれど」
「大丈夫です!」
「俺も、山登りは慣れてるよ」
「...ええ、そうね」
ならば、行動に移そうとルシアは再び二人に声をかける。
指示として出すのは休息中に考えていた策である。
ルシアでは現場で敵がどの位置に居るのか、感知出来るだけの才はない。
多分、怪我をしていて普段よりも注意散漫になりやすいだろうニカノールの方がずっと広範囲を把握出来るはずだ。
勿論、そこはルシアも頼りにしている。
気を張れ、とは決して言わないものの、この状況下で何かしらを聞き取るとしたら一番最初はニカノールだろうと確信している。
だから、ルシアはあまり良いとは言えないのを分かっていて、これが自分の出来る最大限だとばかりに敵の動きを予測する。
予測して、策戦を、次の行動を決める。
ルシアは、このまま山を登り切るつもりはなかった。
そして、そのまま北へ、シーカーへ抜けることも。
この山はそれなりに標高があり、さすがに軽装備すらもままならないルシアたちでは抜ける抜けられない以前の問題なのだ。
だからといって、衝動的に選んだ選択肢をルシアはただそれだけで片付けるつもりもなかった。
しかし、ルシアが向かうのは例の坑道という訳でも、ない。
きっと、そこに行き着きそうな予感はしている。
けれども、そこに向かったとして何になるのか。
帰さずの魔法をかけられた、まさに行きだけはよいよい、と言えるその坑道に辿り着いたところで。
あの場所は周囲が高い崖になっている袋小路。
自ら逃げ場を失くし、追い込まれる気は毛頭ないのだ。
ならば、ルシアはどうしようと言うのか。
それはこの山の中で大きく迂回路を取り、下山すること。
最初にセルゲイの店を出た時、あの時はあの状況では表通りに引き返すのも惑わしの小道の中で敢えて彷徨うのも追手がすぐにかかる可能性が高く取れる選択肢ではなかった。
けれども、深山に逃げたことでルシアたちの行動範囲が広がり、取れる選択肢も増える。
時間を稼ぐことでも増える。
この状況ならば、慎重に動けば攪乱が期待出来る。
少なくとも、敵はこの山に入ったことをルシアたちは知っていた。
だからこその苦し紛れであるとはいえ、取れると判断した策だった。
何より、それだけ時間をかければ、彼らが来ると信頼故の確信をしているからこその策だった。
「――じゃあ」
動こう、とルシアが小さく言おうとしたところであった。
この静けさの森林の中では轟音にも近い音が耳を劈いたのだ。
当然、ルシアの声は掻き消え、その音に驚いたのか、山全体が僅かにざわざわと揺れている。
ミアもニカノールもその轟音に固まった。
思考も一瞬、停止させた。
身体は尚も氷漬けにされたかのように微動だにしない。
「っ!」
最初に自らを叱咤するように身体を動かしたのはルシアであった。
元々、動こうとして上げていた腰をそのまま活用して、音の方へ正面を向ける。
表情は険しい。
背を向けられたニカノールたちからは鏡のように様々なものを映すあの灰の瞳が今、何を映しているのか、窺い知ることは出来なかった。
けれども、ようやっと思考が回り始めて、ミアはぎゅっと唇を噛み締め、ニカノールは視線を尖らせる。
轟音は人の声だった。
それも一人ではない声だった。
張り上げられた声で何かを探しているような会話が響く。
きっと、話し相手が複数居る上に距離がある。
広域に展開されている。
そして、それらは予想よりも近い位置から聞こえているようだった。
これは、いけない。
理屈でも何でもなく、本能がそう思った。
既に何度も接敵して、正面から対峙したはずの相手。
でも何故だろうか、それとも人の本能なのか。
正面切って対峙するのも恐怖を覚えるものだけれど、今のようにこうして、見つかるまいとする方がずっと追手を恐ろしく感じるのは。
隠れているからこそ、より掻き立てられるものなのか。
「――静かに、焦らないで、東へ。ゆっくりで良い。東側は一段下がっているからあちらからは死角よ。大丈夫、ちょっとの音ならあちらの立てる音に掻き消えるから」
ルシアは微かに聞き取れる吐息ほどの声量で二人に告げた。
それはこの場から離れる、ということ。
ここは休息の為に選んだ場所だったが、さすがに隈なく探索されて耐え切れるほどに頼もしい場所じゃない。
持久戦は無理だとすぐさま判断したルシアはそれならば、逃げを打つを決めた。
そして、それは敵がこちらまで来る前に、それも出来る限り早く動くべきこと。
ただ、恐怖に駆られて駆け出してしまうのは悪手だ。
じりじりと遠ざかる。
すぐさま遠ざかりたい衝動を抑えながらのそれはきっと、何よりも辛くて胸を焦燥で焦がすだろう。
けれども、だからこそ忍耐の必要な場面であった。
二人はルシアの指示に声を出すのも躊躇われたのか、余計はしないとばかりにこくん、と頷くことで返事を返した。
ルシアもそれに頷き返し、指で行く先を示しながら、這うように腰を屈めたまま、ゆっくりと動き出す。
声は尚も背後から聞こえていた。
このままこちらに向かってくるかもしれない。
ともすれば、北へ南へどう行くのかは分からない。
この闇夜では痕跡を探すのも一苦労だ。
ルシアたちも一目で分かるような痕跡を残すほど馬鹿ではない。
じりじり、といっそ亀よりも遅く身体の軋む音すら立てまいとするような慎重さで進む。
幸い、この辺りは低木が生え、這うように進んでいればパッと見ただけではルシアたちに気付かない。
幸か不幸か、轟音の声はそのままどの方向へとも進み始めずに最初にそれを聞いた辺りで留まっているらしい。
何らかの話を付けて、行く方向を決めているようだ。
それはルシアたちにとって猶予であり、シュレーディンガーの猫である。
こちらに来られてしまえば、出来ることなら別の方角へ。
猶予は全力で活かす、けれどもこの時間はどうか、と希う時間は苦痛には違いなく。
まるで、首元に刃を押し当てられているような。
もういっそのこと、一思いにやってくれ、と恐怖に負けて、本来なら絶対に嫌だと叫ぶそれを願ってしまいそうになるような。
嫌な、汗がじわりと滲む。
そうして、ルシアたちは深山の東側へとより大きく迂回し、そうしてその先で一つの洞穴を見つけたのであった。
すみません、予想以上に長文になったので一時には間に合いませんでした。




