59.少年の真相(後編)
「確かに私はルシア・クロロス・オルディアレスであって、彼女ではない。けれど、私もルシアなの。ルシア・クロロス・オルディアレスと名付けられ、オルディアレスの伯爵令嬢として育てられたその日から、私はルシアとして10年間を生きてきた。私は10年の日々をこの瞳で見て、この耳で聞いて、この身体で体験してきたの。私はルシアになったのよ。ルシア・クロロス・オルディアレスに。そして、これからもルシア・ガラニスとして生きるの」
まぁ、ガラニスの名はいつまでも背負うつもりはないけれど。
ルシアはノベナを再び見据える。
そう、私だってルシアなのだ。
「...分かるわ、彼女のことは。だって、私は彼女と同じ人生を歩んできた。普通、あり得ないわ。誰かと全く同じ環境で同じ生活を送り、同じ経験をするなんて。もし、血の分けた兄妹が居たのだとしても、彼女が何を感じたか分からない。同じように感じたと思っていてもそれはすぐ横から見ていただけ。それを知るのはルシアだけだわ。ルシアだけなのよ。
だから、敢えて言ってあげる。ルシア・クロロス・オルディアレスが王妃の手駒になるのは必然だった。必然だったの。決まっていたの。彼女がオルディアレス伯爵家の長女となった日から。貴方の言葉を借りるならその時点で始まっていたの。手遅れだったの。例え、貴方が過去を産まれた瞬間に思い出したとしても。貴方がその感情に気付かなかった限りは」
「――なんでっ。どうして、そう言える...!!」
「だって、彼女は愛に飢えていたから。誰かから必要とされたかっただけのただの少女だったから。本来ならば、それを埋めるのはカリストの役目だった。彼が自分の妃として彼女を慈しんであげられれば、良かった。けれど、カリストもまた、自分一人支えるだけで精一杯だった。王妃の手駒である少女がただの操り人形であることに気付けるほどの余裕はなかった。そんなカリストの抱える闇を払うのもまた、ルシアの役目だったんでしょう。
けれど、ルシアにもそんな余裕はなかった。何より彼女は知らなかったの。人に愛される方法も人を愛する方法も。だから、いつだって二人はすれ違う、噛み合わず拗れていくだけ。だから、ルシアを一番必要とした人間は王妃になった。彼女にとって唯一、求められたのが悪役王子妃という役割だったのよ」
こうして、言葉にするとルシアという少女の人生はなんて、哀れだろう。
作中ではただ悪として書かれたルシア。
彼女は誰よりもただ哀れな普通の少女だった。
同じ場所で育った血を分けた兄妹すらも居ない孤独な少女。
彼女には誰も居なかった。
彼女を駒として扱う王妃以外には誰も。
「例え、それが打算による利用されるだけのものだとしても、命を摘まれるものだとしてもルシアがルシアである限り、彼女の人生は決まっていた。彼女を愛する者が現れない限り、彼女を救う者が現れない限り」
案外、私はルシアを救う為にこの世界に呼ばれたのかもしれない、と今回のノベナとの対話で思ってしまった。
だって、私が居なくても、ルシアが居なくても、世界は、イストリアは王子によって平和になる。
だって、主人公とヒロインは幸せになるのだから。
正義が悪を倒し、そうして世界は回る。
それが摂理だ。
誰もがそれが普通だと、ハッピーエンドだと思っている。
悪が本当に悪だったなど、考えもしない。
もしかしたら、なんて、考えもしない。
『悪』ではなく、一個人なのだという当たり前を見もしない。
それが罷り通ることがどれだけ恐ろしいことなのか、気付こうともしない。
これを理不尽と言わず、なんと言う?
本当に、この世界は理不尽で溢れている。
歪なのだ、何処までも。
不遇に生きる王子も、悪役王子妃にしかなれなかったルシアも、繰り返すノベナも、そして私も。
「...お前は全て知っていたのか。それを言えば、少なくとも僕はお前に何も出来ないと分かって。全てを見通して、僕はお前の掌で踊らされていたのか」
「あら、買い被り過ぎよ。そんな最早、予知染みていることが出来る訳ないでしょう。全知全能でもない。私は言ったわ、貴方の動機が分からなかった、と。それに全てを見通していたのなら、川に飛び込んでまでこんな怪我なんてしている訳がないでしょう?」
今も結構、痛いのよ?とけろっとした様子で返すルシアにノベナは呆気に取られて、固まる。
確かにルシアは未来にあたる事象を幾つか知っているが、それは絶対に起こると予知するものではなく、それに近しい物語を知っているだけでそれは結局、人の手によって都合良く書かれたもの。
合間合間が穴抜けなのは勿論のこと、ご都合主義の部分はこの現実でどういう風に辻褄を合わせているか、分からない。
それによってはルシアの知る物語と現実は全くの別物へと変化していくことだろう。
何より、ルシアの存在が一番の差違。
結局はルシアだって未来は分からないのだ。
ただ、人より判断材料を持っているに過ぎない。
だから、この事件は予想外以外の何ものでもなかった。
今だって、圧し掛かっているだけのノベナを退けることが出来ないくらいには身体が動かない。
知っていたら間違いなく、こんな窮地に陥っていないし、そもそもそうならないように根本から対策を取っていた。
こんな状況になっていることこそがルシアが予知も出来なければ、全知全能でもない証明だ。
「確かに大抵は私の推測通りだったわね。けれど、貴方については分からないことばかりだった上に何も確証がなかったから、あんな風に試したり、わざと煽って言質を取っていたの。まぁ、予想外の秘密を元とした貴方の動機を引き出すことに手古摺って、崖から飛び降りる羽目になってしまったけれど」
「...そう、か」
ノベナはそれだけを呟いた。
その顔には生気がない、彼は放心したかのように遠くを見ていた。
全てを諦めた目だ、解りたくもないのに理解せざるを得なかった者の目だ。
既にノベナの手はルシアの首になく、だらんと垂れ下がっているだけである。
通常通りのルシアであったなら、容易く彼を拘束出来ただろうというくらいにはノベナは全てが抜け落ちていた。
...ああ、こうなるとは思わなかった。
最初からこうなると分かっていたならもっと別の方法を考えたのに。
けれど、彼の心の支えを折ってしまったのは私だった。
ぽきりと見事に真っ二つ。
このまま放って置いたなら、ノベナは廃人となり下がるだろう。
でも、それは。
不可抗力にせよ、途中でそうなるだろうと気付きながらも口を開くのを止めなかったルシアとしては。
止めを刺した私だからこそ。
もう修復不可能なほどに、折れてしまったのだとしても。
「ねぇ、ちょっと、放心するのは貴方の勝手だけれども、私はまだ貴方に話があるのよ。けれど、私は今、身体が動かせないわ。そう、指一本たりとも、よ。貴方、私のドレスのポケットに紙が入っているから取ってちょうだい。変装をするのであれば、その位置くらい分かるわよね?」
ルシアはノベナを急かした。
ノベナは何も考えられないようで無言のまま、平常であったならば、急に何の脈略のないことを言い始めたルシアに怪訝に思うところだろう中で言うわれるままにルシアのポケットに入っていた折り畳まれた紙を引っ張り出す。
ルシアはその紙が多少、拉げているものの、本来の役目が機能出来るだろう状態を保てている様子を見て、安堵の息を洩らした。
良かった、何があるか分からないからって魔法を応用して防水加工やら何やらかけて随分と頑丈にしていたからか、ちゃんと無事のようだ。
まぁ、元々の予定ではここまでのことに耐えてもらうつもりではなかったけど!
「っ...!?」
ノベナは続いてルシアから告げられたままにその厳重に加工された紙を開いて、中に書かれていた内容に目を落とし、そして信じられないものを見たかのような顔をして、ルシアを再び見下ろした。
それはそうだ。
だって、それは普通は持っている訳ないもの。
否、存在している訳がないもの。
けれど、その紙は存在している。
それも何処の貴重文献か、と言いたくなるほどの厳重な加工まで施されて。
「それは見ての通り、貴方が私付きの護衛になったという異動通知書よ。ちゃんと貴方の直属の上司にも、国王にだって了承は得ている、正式なものよ。何よりの証拠にそこに捺されている王印が我が国の国王以外に使うことが出来ないことは貴方もよく知っているでしょう?」
「...なんで、こんなものが存在しているんだ」
「――貴方が黒幕のようだと分かった時に動機は分からなかったけれど、貴方をそのまま罪人として良いのかと思ってしまったの。どうにもただ、離反しているようにも見えなかったから。もしも、ただ暴走しているだけならば、このまま処分するより傍で働いてもらった方がずっと有意義だって。ほら、貴方の実力は今回の襲撃を通して、見ての通り。使わないのは勿体ないわ。何事も有効活用してこそでしょう?...貴方はとても優秀だから失うのは勿体無い。けれど、貴方が暴走しているのではなく、私を心底憎んでいたなら他所へやるのも怖い。真意が分からないからこそ、傍に置く方が行動を監視するという意味でもずっと楽だと思った」
お茶会以降もあった襲撃。
どうしてもルシアを排除したいという理念の元での襲撃であるのならば、放置は出来ない。
けれど、失うのは惜しい。
とても惜しい。
そう思って、ノーチェ伝いに諜報部隊長へとルシアは連絡を取った。
離宮のサロンでイオンが渡してくれたノーチェに頼んでいたものというのはこれだったのだ。
...少し用途が変わってしまったけれど、使えるものは何だって使ってやろう。
「ねぇ、何もなくなってしまった貴方に私が役目を上げましょう。もし、私がルシアと同じ道を辿りそうになった時。もし、私が消えてしまって、ルシアが戻ってきて暴走してしまった時に、取り返しのつかないことになる前に、ルシア・クロロス・オルディアレスを殺す役目を」
ノベナは息を呑む。
私だって自分を殺してくれだなんて、頼みたい訳ではないけど。
けれど、それは最初からちょっと考えていた。
だって、私だって何故、自分がルシアとなったのか、分からないのだ。
ある日、突然、私が私でなくなってしまったら。
ルシアが戻ってきて、本来の筋道へと歩み始めてしまったら。
――こんなことただでさえ、色んなものを抱えている王子にも、私に付いてきてくれているイオンにも頼めない。
ふと、彼がルシアを憎んでいるかもしれないなら丁度良いかもしれないと思ったのが、彼を私付きにしようとした理由の一つだった。
けれど、彼の動機が分かって今の彼には頼めないとも思った。
けれど同時に、これが彼の生きる理由になるのではないかとも思った。
「カリストの手を煩わせたくないのは全くの嘘ではないでしょう?なら、貴方は私の一番傍で見ていなさい。何かあればすぐに対処出来るように。勿論、ずっととは言わない。ちゃんと期限をあげるわ。――全てが終わって、私がこの地位から降りるまで、よ」
「...!」
「あら、意外?そんな顔しないでもここはミアの為の席なのは私だって重々承知よ。いつまでも居座るつもりはないわ。でも、今は駄目。今、私が消えても第二のルシアが産まれるだけ。...だから、王妃を打破するまで待って欲しい。その代わり、万全な状態でミアに譲ってあげるから。それまでは何があろうと私は王子妃であり続ける。だから、貴方は見届けなさい。それが貴方の『生きる意味』よ。」
その間に少しでも他に生きる意味が出来れば良い。
そして、願うならばこれが最後の人生になれば良い。
そう、ルシアはノベナに伝えたかったのだ。
少し事情は違うけれど、他者が知らぬことを知る者として。
同じく世界の理不尽さに藻掻く者として同情したから。
ルシアは安心させるように笑う。
ノベナの緋色の瞳から再び涙が一筋、頬を伝ったのだった。




