604.折れたのは
「......」
そうよ、とも。
じゃあ、他に策があるの、とも。
言えることはいっぱいあった。
言うだけのことならば、正面切った肯定から屁理屈まで本当に、いっぱい。
どれを選んだって良かった。
ルシアにはそれらをそれ相応に見せる力がある。
しかし、ルシアが選んだのはそのどれでもなく、沈黙だった。
時には肯定とも取られ、まさにルシアがよくよく都合の良いように扱ってきたそれである。
この場合、ニカノールの発した疑問点に対して、それも一理あると取られてしまっても仕方のない沈黙である。
一生懸命にルシアを止めようとするミアまで居て、そのほんの少しの綻びすらもルシアは認めてはならないはずである。
『それが、本当に最善なの』
だが、こだまするように反響して、反芻する真剣なそれが。
他でもなく、ルシアに沈黙を選ばせてしまったのだ。
選択肢にすらも挙がらないくらいには悪手のそれを、掴んでしまったのだ。
ルシアは、振り返らない。
頑なに、今度こそそれをしてしまえば最後、動かさなければならない身体が油の切れた人形のように動かなくなってしまうのだと言わんばかりに。
決して、決して振り返らない。
「――本当は、まだ。言っていないことが、あるでしょう。お嬢さん、嘘は言って、ないんだろうけど」
だからといって、真実全てを詳らかにした訳でもないのだろう。
皆まで言わずとも、ニカノールの声はそう言っていた。
嘘、こそ言わぬ。
だけども、言わずに居るということが。
敢えて、口にしないというすべを、交渉術を、世渡りを。
ルシアは当の昔に身に着けてしまっている。
――だからこそ、ニカノールの音にならぬ告げた言葉がよく解って、真実だった。
真実は人の数だけあるけども。
今、この場で少なくとも。
それはルシアの真実で、ニカノールの真実でもあった。
「......それで」
辛うじて、それだけを絞り出したかのように小さく、平坦な声でルシアは言った。
それで、それが一体、何だって言うのか。
それで、それがそうだったとして、聞いて何になるというのか。
それで、それで、それで?
それは疑問か、問い返しか、開き直りか――それとも、それは本当にニカノールへ、若しくは誰か他人へ向けたもの?
ただ、自問自答する時のようにルシアはその後の言葉を呑み込み、何も言わなかった。
呑み込まれたそれが一体、どれに該当するはずだったのか、もう分からない。
どれとも付かずに飽和してしまった。
そして、それは当のルシアでさえ、酷く溶けやすかったそれは既に空気と混ざり合って、曖昧で分からない。
「ねぇ、連れてってよ。一人で行こうとしないでよ。危ないって言うんなら、ここだって同じだよ。お嬢さんだけじゃない、俺たちだって敵に顔が割れている」
危険性を一つ、見逃している。
ニカノールはそう言わんばかりに言葉を滑らかに募った。
饒舌なそれはここに来て、怪我のことを忘れたようだった。
あるかも分からない敵分散の利点より、その不利益こそが余程、目を付けなければならないんじゃないの、と訥々と言う。
ルシアが理屈で押し切るのならば、こっちだってとばかりに嬉しくもない利を重ねる。
感情で語るなら感情を、癇癪なら癇癪だ。
正直言って、そちらの方が得意という言いたい訳ではないけれど。
ルシアが相当に便が立つとしっているから相対的にそうなってしまう。
顔が割れているのはミアもニカノールも一緒。
それなら、ここに敵が一人でも来た時に一巻の終わり。
本当に、敵を分散させる気があるのなら、こんな重大なことを看過する訳がない。
少なくとも、ルシアはこの懸念に気付かないほど抜けてはいない。
どれだけ、予断を許さない状況下に居ようと、だからこそ冴え渡る頭で考え付かない訳がない。
それは良くも悪くも信頼だった。
むしろ、強烈なくらいの信頼だった。
ニカノールはルシアのそんなところをいっそ、盲目的に信じていた。
たった十数日の関わりだろうとルシアの人となりはそうであった。
それくらいなら、連れていけ。
移動の遅さはどうしようもないが、その分、隠密で動けば良い。
この時間ならまだ、それが通る。
まだ、夜だ。
夜の帳が落ちた時間だ。
そして、そんな暗闇の中を敵を搔い潜って進むには案内人が必要だろう。
そして、こうなればミアだけを置いていけないだろう。
――これがニカノールの言い分であった。
ルシアは何も言わない。
言えない。
だって、その言い分ではルシアはそんな重大な欠陥あるこの策戦に踏み切った愚か者か、決してこちらには敵を寄越さないように、若しくは逃げるだけの隠れるだけの時間を稼ぐ囮になるのだと言うほかなくなってしまう。
勿論、それそのままを言う訳ではないけれど。
でも、どれだけ上手く言葉を重ねようが巧妙に隠してしまおうが最後に行き着く先はそこになってしまう。
そして、最後であるということは始まりであって、根本でもあるということ。
根本であるならば曲げられないし、曲げられないからこそ、どれだけ隠蔽しようと痕跡が残る。
そういうものだ。
ここまでのニカノールの言い分を聞いて、ミアまでも慌てたように口を挟む。
それなら怪我人のニカノールの世話は引き受けると声高々に名乗りを上げる。
だから、ルシアは周りに、目の前のことに、目的に集中しろと言う。
とても見事な、援護射撃だ。
そうまでされては彼のルシアでさえも容易に反論が出来なくなってしまう。
「――、......」
ふわ、と開いたのはルシアの唇。
そして、それは音を発する前兆だ。
ぴたりと二枚貝さながらに閉じ合わせていたそこが綻ぶ。
そうして、ルシアが告げたのは。
――ただ、この時この場所で。
ギラン、ギランと星の瞬きを間近で見たかのようなそれが。
同様の輝きを持った二色と相対したのは。
油を燃料に、拒んだそれをそっと解いて、合わせたのは。
他でもない、実在した出来事であった。




