5.思わぬ初対面(後編)
あの後、何もありませんでしたという顔でルシアたちは廊下を進み、ある一室へと通されて待たされている状況であった。
因みにルシアたちがここへ通されてからもそれなりに時間が経過していた。
いや、さっき居たじゃないか、と胸の内で叫んでしまったのは無理からぬことであっただろう。
一体、どれだけ待たせる気なのか。
年頃の乙女じゃあるまいに準備に手間取っている訳でもないだろう、とついにルシアが顔には出さないまま、悪態を吐き始めるくらいに待たされていたのであった。
ルシアとしては有意義にこの今にも着実に無駄に消費されている時間を読書にでも割きたいというのに王子がいつ来るか分からないのではそれも出来る訳もなく。
そもそも、こうも待たされるとは思わずに本を持参してもいないので、ただ只管に待つ他ないのである。
返せ、貴重な読書時間。
それこそ最近は王子妃となる為のレッスンだとして一日の何割かを拘束されているルシア。
これ以上、身勝手な相手に己れの時間を消費させるのか、とそんな風にルシアのイライラが増しに増してきた頃合いでやっと王子が姿を現した。
それにルシアは内心はどうあれ、きちんと教え込まれただけのことは完璧に、とばかりにすぐさま座っていたソファから立ち上がって淑女らしく礼を取る。
しかし、王子からの言葉はいつまで経っても降ってこない。
王子が何かを言わないことにはルシアも動けない。
勝手に話し始める訳にはいかないからである。
必然的に沈黙が落ちる。
ただ、じろじろと不躾に見下ろされる視線だけが後頭部に刺さるのをルシアは肌で感じていた。
ルシアはぴくりと眉尻を動かす。
態勢はそのままに保ちながらなので、誰にもそれは見えていないだろう。
しかし、ルシアは表情も同様にそのままを保ちながらもぴくりと動かしたのである。
いくら美人だって美少年だって限度がある――。
そんな言葉を音に立てずに自身の中で反響させて、溢れそうになるのを必死に止めて。
しかし、このままでは何も進まないのもまた事実。
「...本日は御招きいただき心より感激申し上げます。オルディアレス伯爵が長女、ルシア・クロロス・オルディアレスと申しますわ。以後、お見知り置きを」
この際、許可など二の次だとばかりにルシアは強行に走った。
本来は目上の許可が要るものの、如何せん一言も王子が喋らないので勝手に礼の姿勢を解いて、挨拶に移ったのである。
元はと言えば、あちらが先に礼を欠いたのだ。
多少の無礼は見逃してもらう、というようなつもりでルシアは口上を述べたのだった。
まぁ、その口上を完璧に成し遂げれば帳消しだろう、という思うがない訳でもなかった。
そして、最終手段はまだ幼い子供であるから、という魔法の言葉である。
だが、しかし。
「......」
...返事がない、ただの屍のようだ。
いやいや、屍では断じてないけれど。
そんな世迷言のような言葉が過るほどに王子はルシアの挨拶に一切の反応を示すことなく、睨め付けるような視線でルシアを見つめていたのであった。
ルシアは僅かに顔を上げて、こくりと喉を鳴らす。
そこに見えるのはどちらかというと精巧な人形だと言って良い造形の美少年。
少し不機嫌そうにも見えるその顔はそれでもほとんど真顔であり、それが一等迫力を増していた。
これは事前に心構えを作っていても、気圧されずには居られない美しさである。
使用人は王子の来訪と共に退出させられており、部屋に居るのは王子とルシアとイオンだけであった。
三人のうち、誰一人も声を発さないから部屋はまたもや静寂に包まれる。
その沈黙が胃にグサグサと痛めるのだが、それを配慮してくれる人なんていやしない。
重い、重い沈黙が続く。
けれど、それは暫く続いた後、不意に視線を逸らし、ソファに腰掛けた王子の行動で変化が訪れる。
相変わらず、沈黙は沈黙であったが、ルシアは王子の方を様子見ながらも先程まで自身が腰掛けていたソファに着く。
王子はその行動を咎めることもしなかった。
「――先程は廊下でお会い致しましたね。殿下はお怪我など御座いませんでしたでしょうか?」
黙りっぱなしというのも気不味く、しかし振る話もないので先程のことを気にしていません、という風にルシアは何とか口を開いて、そう言ってみたのものの、やっぱり返事がない。
いや、ここまで会話をしようとしているんだから、何かしら頷くだけでもしてほしい。
気遣いくらいみせろよ、主人公!
ルシアはかちん、と殴られたような音を聞きながら、内心で盛大に吠える、吠え立てる。
「......その際は本当に、驚きましたわ。廊下で急に角から現れた何方かとぶつかってしまったと思いましたら、そのお相手は目が合うなり去ってしまって。一体、何処の何方なのでしょう、と思っておりましたの。まさか、そんな紳士な方が殿下だったなんて、思いませんでしたのわ」
「!」
にこり、というほど己れの表情筋は仕事をしてくれないが、そのくらいの勢いで見苦しくならない程度にルシアは口角を吊り上げる。
王子の顔が強張った。
ルシアのわざとらしい嫌味にちゃんと気付いたようである。
喧嘩モードだ、それならば言い値で買ってやる。
今にもそう言い出しそうなルシアはさらに満面の笑みを意識して口角を持ち上げ続ける。
かちん、という音を聞いた時、一緒にルシアの堪忍袋の緒は切れていたようであった。
「ああ、殿下を責めている訳ではないのです。きっと、それだけお急ぎであられたのでしょうから。ただの伯爵令嬢であるわたくしには皆目見当も尽きませんが、殿下とあろう御方ならばお忙しいのでしょう。本日はそんな中でお時間をいただき、本当に有り難きこと。しかし、いつまでもわたくしなどにその貴重な時間をかけていただくのは申し訳ありませんわ。――これで、目的である顔合わせも終了致しましたし、これ以上の時間をかけてもお茶を悪戯に消費させるだけ。それならばお互い、他に有意義なことがあるでしょうからこの辺りでお開きでもよろしいのではないのでしょうか、殿下?」
にっこりと笑いかけて、ルシアは立ち上がり、さっと退出の礼を取る。
まだ暇を貰う許可すらも乞うてはいないが、ある意味での催促である。
有無など言わさぬ迫力を笑みで出すのだ。
意識を続けたことが幸いしてか、普段動かない表情筋が大活躍してくれていたからこそ出来る手であったとも言えよう。
しかし、これは明日には筋肉痛になっているだろうとルシアは思う。
それはそれで、どれだけ己れの表情筋は硬いというのか。
「っ、好きにしろ!」
同じく常時、仏頂面だった王子が僅かに頬を赤くしながら言い放つ。
ルシアの言葉を聞いて、反射的に言い放ってしまったかのような声の張りと速度であった。
しかし、ルシアは言質は取ったとばかりに退出したのはどんな言葉であろうと言質は言質だからである。
揚げ足取り?
王族ともなれば、その発言を曲解されることもあろう。
その辺りは王子が王子である以上、きちんと制御せねばならぬことだ。
だから、これは王子の力不足でもあるのだ。
けれど――。
怒らせた、だろうか。
ルシアはほんの少し考える。
先程の王子はクールで感情が顔に出ないと聞いていた割には薄らとだが、表情というものがあったのをルシアは見逃していなかった。
まぁ、まだ十歳というやっと年齢が二桁に乗ったばかりの少年なのだ。
いくら、王宮などという普通の人間よりもずっと様々な経験が出来るだろう場所で育っていても。
そういう経験値と表情読みは現代日本人だったルシアの方が圧勝だっただけのこと。
さて、とルシアは先程のやり取りの始終を思い起こしながら、今後のことを思い浮かべた。
あれではきっと、王子には嫌われてしまったことだろう。
きっと、王子はルシアに良い顔はしない。
惜しむらくはこの婚約に当人たちの意思は反映されず、完全なる政略というところだろうか。
そうでなければ、これで破談なのに。
いや、そもそも当人の意思が通るならこの婚約話自体、持ち上がっていないのだけども。
「...お嬢様、ルシアお嬢様」
「?なあに、イオン」
部屋を出たルシアに付いて、横を歩いていたイオンがこちらを見下ろしていた。
ルシアは呼ばれるままにそちらを振り見上げて、眉を寄せる。
何だ、その呆れたような目は。
うちのお嬢は全くもう、なんて考えていそうな顔がそこにあった。
心外だ、とルシアはイオンの顔に書かれた全てに目を眇めたのだった。
「あんた、暴走し過ぎでしょ」
屈んだイオンが小声で告げる言葉は完璧従者モードが完全に剥がれ落ちていたものだった。
いや徹底しておけよ、そこは。
何の為に巨大な猫飼っているというのか。
声には出さずにそう言葉を胸の内で返しながら、ルシアはわざとらしく令嬢モードを徹底したままイオンに微笑む。
「あら、わたくしは止めてね、とお願いしたはずよ?今回のこれは貴方の怠慢ではなくて?」
「止める間もなく、暴れたのは何処の何方でしたっけ?」
よし、イオンの顔が笑顔を貼り付けているが、青筋が立ってきているのでこの話は止めよう。
言ってみたものの、このままでは意趣返しがとんでもない形で返ってきそうな予感がしたのでルシアはすぐさま口を噤み、話を終わらせた。
はい、全て悪いのは自分だ。
大人げないほどだ、とルシアは自分が思っているより苛立っていたことをここで知る。
ほんの少しの反省を少々。
――それはそれとして、ここは何処だろうか。
そこでやっと、ルシアは周囲を見渡した。
無意識に荒立った気を鎮める為に思うままに歩き過ぎていたようで来た道が曖昧だった。
そもそもここの廊下は全て同じに見えて何処か分からない。
王宮内が広過ぎる。
迷うな、という方が無茶だとルシアは思う。
将来的にここに住むことになる、ということは考えない。
王宮だという時点で既に考えないようにしているのだ。
考えないったら、考えない。
「あれ、ルシア?王子とのご対面はもう終わったのかい?」
「!兄様」
そんな現実逃避をするルシアへ横合いから声がかかる。
こんなところで声をかけてくる人物なんて、と思いつつも聞き覚えのある声にルシアはそちらを振り返った。
そこに居たのはルシアの兄だった。
アルトルバル・クロロス・オルディアレス伯爵嫡子。
ルシアに彼の王子との婚約話を報せてくれた人物。
そうか、兄は王宮内でも仕事をしていたな、と思わぬ兄の出現にそこまで考えてからルシアは思い出した。
そして、あれで終わったと言えるのか、終わらせたと言うべきか、の王子との邂逅を遥か彼方へ追いやって、何食わぬ顔でアルトルバルに答える。
「はい只今、終わりましたの。兄様はお仕事中でしょうか」
「ああ、資料を取りに図書館へ」
「!」
図書館!
ルシアはアルトルバルの告げたその単語に反応して、目を大きく見開いた。
王宮内の図書館なんて蔵書数も国一番ではないのだろうか。
つまり、読書家たる者には夢のような場所ではないのか、それは。
ルシアの脳裏へ瞬時にそうした思考が過る。
ルシアは思わずといったように一歩、アルトルバルの方へと足を踏み出した。
「......良ければ、ルシアの入室許可を申請しておこうか?」
「本当ですか、兄様!」
急にそわそわとし始めたルシアにアルトルバルは悪戯めいた顔で笑って、そう提案した。
普段の氷、と称されるほどの歳不相応の冷静さは何処へやら、瞳をきらりきらりと星屑のように輝かせながら、ルシアが声を弾ませたのを見て、アルトルバルはより笑みを深めたのだった。
「ははっ、本当にルシアは本が好きだね」
「ええ!」
即答するルシアに彼は許可が下りたらすぐに知らせるからね、と残してルシアたちに門の方向を教えながら去っていった。
門へと向かいながらストレスがかかる一日だったと思っていたルシアだったが、アルトルバルのお陰で良い一日になったと機嫌良く笑ったのだった。