593.去り行く案内人、少女たちは裏通りを行く
「......抜けた」
辺りを一通り、見渡した後にルシアはやや呆然とした声音でそう言ったのは完全に心境そのままが口から出ていたということに他ならない。
何処かほっとしたような響きも持つその声はこれを期待していたし、そうなってくれればと思っていたが、実際にそのように事が呆気なく運んだことに喜びよりも困惑、拍子抜けという感情が先立っていることを示している。
表情もまた、それに伴って引き締められていたのが、緩和されている。
現実味がない、というのが正直な心境だろうか。
しかしながら、視界に納まるそれらを現実である。
「じゃあ、ここがルシアさんの言っていた...?」
ルシアの呟きを拾って、ミアがハッとした様子でキョロキョロと周囲を見渡した。
ミアは初めて見るだろう。
ルシアもたった今、自分の立つ場所から見える景色という意味なら初めて見た。
けれども、感じ取れるこの場の空気は間違いなく。
「ええ、前に来た時の場所ではないから私も初めてだけれど、確かにここは裏通りのはずよ。ほら、先程まで歩いてきた道とは周囲の様子が明らかに変わったでしょう。建物の入口があるでしょう。少なくとも、惑わしの小道内に道以外の場所はないから抜けた、と見て良いわ」
惑わしの小道は形に様々な種類を見ることが出来れど、全て道で構成されており、両脇を挟む壁にその建物だろう中に入る入口があることもなければ、他の名称で呼ぶことの出来る場所も存在しないらしい。
何故、そうであるかはニカノールでも知らないという。
けれども、彼処は名の通り、道であるという。
ルシアはそんなことを含めて、確証を得る手段を持たないミアへ簡単に説明しながら、この場の証明をした。
これはルシアにとっても、順を追ってこの場を定義し、認識する為の行為でもある。
建物の入口があることも、通りの幅が広いことも、人の気配、生活の痕跡、十分に静かな場所と称されるだろう中で確かに鼓膜を震わせている微かな音たち。
これらは全て、惑わしの小道になかったもの。
しかしながら、表通り側の何処かというには閉鎖的な雰囲気が漂っている。
惑わしの小道は一見、何の変哲もない小道である。
しかし、そのかけられた惑わしの魔法故なのか、目には見えないそれを本能というべきものが感知するのか、何処かとは言えないけれど、ルシアも何らかの違いを感じ取っていた。
だから、この場所へと踏み出した一歩の時点でルシアは何より肌で抜け出たのだと体感していた。
その後に続いた呆然とした呟きはやっぱり、事実よりも身体よりも思考がそれらへ追い付いていなかったのだろうと思う。
そして、ここが表通りという風でもないのなら、裏通りでやっぱり間違いないのだろう。
「......では本当に、辿り着けたのですね」
「――ええ、本当に。半信半疑だったけれど」
まさか、本当に惑わしの小道を抜けられるとは。
一度、試しにと踏み入れて抜け出ることが出来ず、そしてつい先程までも彷徨い歩いていた身としては大分、信じ難いことに。
本当に、と二人して繰り返すのはそういうことだ。
あまりにも希望の薄かった事柄がこうも簡単に解消されて、驚きの方が勝っているからこその感嘆詞だ。
半信半疑だった。
何たって、確実性の欠片もない話。
気分はもっと前向きではあれど、状況としては藁にも縋るといったところだった。
しかし、そんな猜疑も吹っ飛ばす勢いで欲しい結果が掌に転がってきたのだ。
――それもこれもフキョウの促すままに付いてきたから。
「あ、そうだわ。フキョウは」
フキョウのお陰だ、とルシアは思ったところではた、と顔を上げて、キョロキョロと周囲に視線を向けた。
探すように彷徨わせたそれが求めるものは言うまでもなく、あの白い小さな案内人である。
ルシアの溢したその言葉にミアも同じく今、気付いたとでもいう様子で周囲に視線をやり、ある一か所を見て、あ、と声を洩らした。
ルシアはミアの目線を追って、自分たちの後方の上空を見上げる。
その角度は先程までのものよりずっと高い。
それ即ち、見ている対象物の位置も高所であることを指す。
そう、フキョウは惑わしの小道の中で道案内をしてくれていた時よりもずっと高い位置に居るのをルシアたちは見つけた。
既にここにはもう用はないとばかりに飛び去って行くその後ろ姿を見つけたのである。
振り向きもしなければ、旋回することもなく、何処かへ止まる気も、ましてや降り立つ気もないそのある意味、潔い姿。
挨拶一つもなしに去っていく様子はあまりに薄情で、やっぱり小道の中で大人しく掌に納まってくれたのは気紛れ込みの必要事項だったからだとでも言わんばかりだ。
感謝くらいさせてくれたって良いのに。
少々、拗ねた心地で去り行く小さな背中がより小さな点となっていくのをルシアは見送った。
横でミアも同じようにただ空を見上げていた。
「――行きましょうか、ミアさん」
「あ、はい...!」
フキョウの姿が視認出来なくなるまで空を見つめ続けたルシアは視界に映るのが折角、薄暗いところから脱したというのに変わらぬほどの色となりつつある空だけになったのを数秒だけ見つめて、顎を引き戻し、ミアへ真正面から視線を合わせて、そう声をかけた。
その数秒の間にも空は太陽を呑み込む。
一瞬にして、闇に呑まれていくような感覚だった。
空を飛べないルシアたちがフキョウを追いかけることは出来ない。
戻ってくる様子もその性格上からも可能性が低いフキョウの去っていった空をいつまでも見上げていたって埒が明かない。
そして、日は落ち切ってしまったのなら、いくら裏通りに抜けられたからと言って、身動きが取れなくなるのなら意味がない。
まだ辛うじて、薄暗いで済んでいるうちに最低でも灯りのある場所へ移動した方が良いというのがルシアの判断。
時間がいつも刻一刻と。
裏通りとて、人が住んでいる。
少し歩くだけでも灯りは見えてくるだろう。
惑わしの小道から抜け出ることに比べたら、そう難しいことではない。
こんなのは子供の児戯だ。
そんなルシアの心境が漏れ出ていたのだろう。
不安も憂いも一切合切を何処かに落としてきたようにぱっと顔を上げたミアがしゃんと背筋を伸ばして、返事をする。
こうして、ルシアは灯りを、そして目指すのならば裏通りで唯一、知っているセルゲイの店へ目指して、ミアと共に歩き出したのだった。




