565.過去二度に渡るその邂逅
ルシアが知るのはこの絵のこと。
この絵に纏わるある話。
それは紛いようのない事実だと、ルシアは確信している。
ルシアは周囲の視線も自身の呟きを聞き切れずに思わずといった様子で溢され、宙に消えたニカノールの間抜けた声もその一切に無視をして、もう一歩。
――もう一歩、踏み出した。
そこまで行けば、もう手が届くだの届かないだの、の話ではない。
正面も正面過ぎて、最早、顔を逸らさねば、絵の全容はルシアの視界に納まらない。
そうと分かっていながら、ルシアは進み出た。
記憶の中のものほどではないけれど、ぼんやり溶けた輪郭を見定めるように前へ出た。
そうして、するりと軽やかに。
あまりに流麗過ぎたそれを誰も咎める隙がなかった。
止める暇もなかった。
それはあくまで普通の速度、それが繋がれた腕から肩から駆動して持ち上げられるのを、そうしてその軌道がまさしく目の前のその絵に伸びているのを理解する間があったというのに。
誰一人として、ルシアのその行動を。
絵へと伸ばされたルシアの白く細い華奢な手を。
――それが絵の表面に触れるのを、誰一人として制止することは適わなかった。
ルシアは触れる。
感動さえも覚えたその、絵に。
宗教画などと自ら呼称しておきながら、躊躇い一つ見せずに触れる。
恐れ多い、なんて感情は無縁だった。
元来、絵というものはその手法にもよるが、基本的に下手に直で触れてはならないものだ。
理由は至極簡単で皮脂などで汚れるというのも然ることながら、酸化や温度、崩れゆく表面、絵というものは割かし完璧な状態で保存し、管理することは難しい。
世の中には絵の修復師などという者が居るのだから、それも当然のことである。
絵、は。
有名、無名に関わらず、何処にでも有り触れて、埃を被っているのもあれば、日焼けも気遣われずに壁に何年もかけられたものもある。
上手い下手はさておいて、誰でも描けるし、飾ろうと思えば飾れる、絵。
この絵だって、ぽつんと特別扱いを受けながら、絵よりも鑑賞者優先で木漏れ日を受けている。
イーゼルに立て掛けられているのはそれだけ思い入れがあるからか、それとも本当にこの絵だけが特別なのか。
それでいて、イーゼルの縁に積もる埃は何故か。
絵、とは。
物によっては財産として扱われるほどの高値である。
物によっては評価の一つもなく、破り捨てられるものもある。
値に関わらず、大事にされるものもある。
その価値を、どう見るかは人それぞれで、その絵そのものの魅力をどう見るかもやっぱり、人それぞれだ。
――ここにあるこれは。
この絵は。
決して、高値ではないだろう。
こんな、寂れた街外れにある収益を目的にしていないとしか思えない店の見つかりづらい奥にあるのだから。
然れども、ルシアたちにとっては何より価値あるもので、ルシアの確信によれば、これは金銭などでは到底、比べられない代物である。
絵の凹凸がルシアの指の腹に触れた。
大袈裟ではないが、塗り重ねられた油絵具が山なりを谷の折り目を直に触れるルシアに伝えていた。
ルシアの手があともう少し温かければ、若しくはもう少しの時間が経てば、これは容易くルシアの白い指をその絵具で汚すだろう。
こうした変調だって見せるのだ、絵ってやつは。
それなのに触れた。
分かっていて、触れた。
そうする必要があったからではない。
ただ、己れの中で芯を持ってしまったそれを確かめる為に絵に触れる。
ルシアは自らの心のうちにあるそれを確認する為に指を這わせる。
そんなルシアの心境を一体、誰が何人が正確に読み解いたことだろう。
理解したことだろう。
ただ確かなのは、こうした今でも誰一人としてルシアのその背へかける言葉を見つけられていないこと。
ルシアを止める言葉も問う言葉も果ては意味のない感嘆詞さえも奪われたまま。
自分が見たそれはこれほど立体ではなかった、と。
平たく薄っぺらの上で見たのだ、と。
ルシアはいやに落ち着き払った思考回路で、その思ったままの感想を脳裏の中だけで吐き、そっと絵の表面へと滑らせた手を指を離すのであった。
その指の腹には薄らと銀色が付いているようにも見えたのだった。
ーーーーー
ルシアがその記述について触れたのは、実は一度ではなく二度であった。
一度目は挿絵。
よく知るこの世界と類似した小説の挿絵。
前世での話。
そして、二度目は何と今世、ルシアとして触れたのである。
二度目のそれは形そのものの描写はなかった。
文章だけのそれだった。
けれども、挿絵なんかよりも明白にそれは事細かに記載されていた。
イストリア王宮の、禁書庫での話である。
けれど、この二度があったからルシアはそれに辿り着けた部分が大きいと思っている。
どちらも情報としては欠けていて、どちらかだけではもっと難航していただろう。
けれども、その二度で二つの視点からの情報をルシアは得ていた。
絶妙なほど欠けた部分を補うかの如く、割増しされたその情報が記憶を掘り起こす手助けとなった。
下手な鉄砲などと言うつもりはないが、的が大きければ大きいほど良いのは事実。
現に今、ルシアはそれを回想していたのだから。
イストリア王宮の禁書庫でそれは肖像画として、記述されていた。
初代竜王の唯一残っている肖像画、と。
まぁ、初代竜王の御代なんて、もうずっとずっと気の遠くなるほど昔のことである。
残っているということ自体が信じられないほどにはずうっと昔。
この記述でさえ、よく保管されていたな、というのが率直な感想だった。
その時、ルシアは脳の片隅で似たような一文を読んだ記憶が甦ったが、気のせい程度で終わる話であった。
元々、その時はそれについて調べるのがルシアの主目的ではなかったというのも味気ないほど容易く手を引いた理由だった。
その絵のタイトルは『すべてのはじまり』という。
これは作中に出てきた単語ではない。
たった一文の中にはなかった言葉。
二度目に触れたあの禁書庫でルシアが読んだその書物に出てきた言葉だった。
ルシアはその単語もそれを知った際のことも挿絵の存在と一緒に思い出した。
あの時はふわりと浮かんで形になる前に掴むことを止め、宙に消え去るのを良しとした、小さな疑問が何であったのか、それについてもまた分かった瞬間だった。
それほどにルシアにとって、それらはイコールであった。
その言葉は二度目の文章の中のみにあっただけの単語。
なのに何故か、口に突いて出たそれは馴染み良く、脳裏に浮かんだ挿絵と現在、目の前にある絵とを差し示す言葉としてこれ以上はない、と思わせるものだった。
芯を持ってからは結び付いて解けないほどであった。
ルシアには妙な確信があった。
この二つがイコールであるという確証もない妙な、確信があった。
「――少し、聞いてほしいのだけれど」
初めて振り返って、ルシアは見向きもしなかった皆の顔をその一つ一つをきちんと見据えて、静かに言った。
尋ねるようなそれは願い出るようでありながら、その響きは何処か有無を言わせぬ迫力が見え隠れする。
それはもう、強制的なそれだった。
少なくとも、視線が集まり、動向を気にしている者たち相手にはこれ以上ない強制力だった。
まぁ、聞かぬと言う者は居まい場ではあるが、ルシアはそれら全て上手くひっくるめて、彼らを一瞬で観客とした。
あまりに鮮やかな手際であった。
「この絵のこと、よ」
ルシアは鈴の声音でそう紡ぐ。
心地としては聞いていなくとも関係ないとばかりのそれで、唐突なそれに惚けていてもお構いなし、という事前の確認も僅かな待ちの合間も用意しない話し始めだった。
そうして、ルシアは最初にこの絵に感じた懐かしさを既視感として言い換え、イストリアに居る際に読んだある一冊にそういう記述があったこと、そしてそれが同様のものを指しているのだろうと感じたことだけを滔々と語ったのであった。




