547.名は体を(中編)
「......」
涼やかな風が吹き抜ける。
時たま、聞こえてくるのは鳥の声であり、何処か人の喧騒は遠い。
まるで、人の踏み入れない自然の先にある場所のようなここで彼は一人、何をするでもなく、突っ立っていた。
仕事中であるにも関わらず、手持ち無沙汰と言って良い状態。
時間だけがやけにゆっくりと、しかし確実に進んでいる。
それは懐に忍ばせている時計の針の音だけが証明していた。
正確な時刻は分からない。
彼は今、手持ち無沙汰ではあるものの、一応の礼儀としてしゃんと立つようにしており、結果として同じ理由で逐一、時計を取り出して、時間を確認することは憚られたからである。
だから今、ここに来てから一体、どのくらいの時間が経ったのか、そして後どれくらいの時間をこうしていれば良いのかと午前の爽やかでありながら、一等、時間が読みづらい青い空を視界の片隅に後ろ手を組んで、表情だけはしっかりと澄まして、一人で立っていたのであった。
否、正確には一人ではない。
紫黄の瞳が焦点を僅かにぼやけさせて見つめる先、空の青さと緑の群生、その中に。
まるで、名高い画家の描いた絵かと思わせる、上記二つを見事に背景と化してしまっている麗しい少女が一人、彼の正面にある一本の木の木陰に座り込んで、本を読んでいた。
顔には出さずとも身体のほんの少しの揺らぎが暇を持て余していると気付く人には気付く内心を抱えながら、彼が立っていたのは他でもない。
この少女が、朝っぱらから普通は近付くことのないはずの使用人の部屋までやってきて、彼を――青年を連れ出したからであった。
ここはオルディアレス伯爵家の屋敷の外れにある奥庭のそのまた外れ。
朝早くからこの家の令嬢たる、目の前の少女――ルシアに特攻をかけられた青年はぎこちない挨拶もそこそこにルシアによって、部屋を出ることとなった。
そうして、ルシアの後ろに続いて歩いてきた先がここである。
青年は初めて、訪れるこの場所にきょろきょろとつい軽く周りを見渡したその時だった。
前を幼子の歩幅でありながら、つっかえない程度には足取り良く歩いていたルシアがその足で木陰へと一直線に向かい、そこへ座り込んで実は部屋へ訪問してきた時から手に持っていたらしい本を読みだしたのは。
勿論、青年は呆気に取られた。
ここまで連れてきておいて、この少女は何一つ青年に指示も疎か、道中さえも何も言わなかったのだから。
果たして、何の為にこんな準備も終わらない時間帯から連れ出されたのか。
その結果がこの放置とは、全くもって青年の予想の内にはなかったのである。
これが気軽に声をかけられる相手にされたことであったなら、青年は文句の一つを言い、多少、憚られる相手であっても何の為にか、または何をすれば良いのかと尋ねたことだろう。
しかし、相手はいやに大人びているとはいえ、幼子であり、まだまだ行動理念がしっかりとしていなくとも全然可笑しくない子供である。
まぁ、それはここに来てから今日までの数日で既に疑問形と成してしまっているのだが、だからといって念頭にある常識が完全に脳裏からなくなる訳もなく。
何より、来て早々に展開されたこの一枚絵の如き風景に踏み入って良いのかと思ってしまったからである。
少女は子供どころか、大の大人よりも表情が動かず、整った容姿も相まって人形のようであったから、こうして黙って静かに留まっていられると生きている人間であることを忘れそうになるのだ。
よって、気軽に声をかけて良いのか、分からなくなる。
だから、青年は声をかけるにかけられず、それらしい表情で突っ立っているという訳であった。
「――ねぇ」
「!はい、何でしょう」
引き続いて、思考はこの状況に疑問を呈していた時分だった。
ふいに灰の瞳を縁取る睫毛を震わせて、本に落としていた視線を上げたルシアが音をその小さく形の良い口から発したのである。
急なそれに慌てて、ピントを合わせた青年は真っ直ぐにこちらへ向けて、据えられる灰の瞳を正面で受け止めた。
しかしながら、そこから読み取れるものが一つもない。
何を考えているのかも一向に分からない。
だが、この数日で少しだけ分かったことがある。
きっとそれだと思いつつも確証は得られなかった青年は取り敢えず、笑みを作って、返事を返したのであった。
ーーーーー
一番の新人としてオルディアレス伯爵家に仕えることになった青年。
この度、初めて出来たルシア専属の使用人というのが彼の立ち位置。
ルシアの話し相手であり、子守りにならない子守りというのが彼に与えられた役割。
――そう、屋敷の誰もが口にする。
きっと、彼も今、この時を多分、そう表すものだと思っているのだろう。
青年とは反対に完璧な無表情の下で青年の心境を読み解いていたルシアはぎこちない笑みを浮かべる青年にそう判断した。
この時、これから十年以上の付き合いを続け、きっと変わらずいつまでも傍に居るのだろうというのが当たり前の関係となっていくこの紫黄の瞳を持ったこの青年にまだ名前はなかった。
ルシアがこの青年を拾って、この屋敷に招き入れて早数日。
良くも悪くも彼に与えられた仕事はルシアの傍付きであり、最も共に居るルシアが呼ぶことなく、他の場面でもそこまで困ったことになるほどのことが起こらなかったこともあって、今尚、名前がなかったのである。
元の名前も憶えていない。
それではそれっぽく名乗ることも出来ず、この時、この青年は正真正銘の名無しであった。
無くても何とかなっている現状、急いで用意する必要性はない。
とはいえ、人としてそれはどうなのか。
それはルシアも誰にも悟らせない内心では考えていたものである。
ルシアは正面に立つ青年を見つめた。
先程、声をかけてからルシアの言葉を待ちつつも、困惑が見て取れる笑みを浮かべている青年を。
今もルシアの視線の意味が読み取れずに徐々に表情にも困惑が表れ始めていた。
従者としては顔に出過ぎ。
しかし、たった数日にしては彼のその振る舞いは充分に従者らしく、優秀であった。
既にルシアの過ごし方や周囲との距離感を掴んで不快にならないように振る舞えているのだ。
例え、顔に困惑が出ていようと、突然、連れてこられて放置されて意味が分からず、どうおして良いのか、考え倦ねていても彼のそれっぽい行動は充分に正答であったのだ。
名前すらも思い出していない、何一つを憶えておらず、急に知らぬ環境へ放り込まれたというのにだ。
ただ、凄く優秀なのだろうとルシアは思った。
「......貴方、本当に何も思い出せないの」
「え、あ、はい。数日経つんですけど、これが全く思い出せなくて、ですね」
青年はルシアの問いにやや緊張した面持ちで、しかしほっとしたような顔をして、そう告げた。
矛盾しているようなそれはきっと、ルシアが何を聞くのか、薄々ではあるが予感しており、その通りであった安堵とそれはそうと内容に対するこれといった答えを持たぬが故に気不味い思いをしているからであろうとルシアは推測した。
そして、それはほとんどその通りであった。
「――残念、聞きたいことがあったのに」
「はい?」
嘆息のように、つい溢してしまったようにルシアはぽつりとそう呟いた。
実は一日に一回。
通算七回目である今日は青年が目覚めてから七日。
青年が色好い返事を出来なかった回数もそれと同じ。
だが、ルシアが呟いたそれは青年にとって初めて聞くことであった。
青年はきょとんと年齢不詳であるが、目測の年齢よりも幼い顔で首を傾げる。
ルシアはその様子に今度こそ嘆息を吐いた。
ルシアがこの問いを繰り返すのは青年に聞きたいことがあったからだ。
しかし、まだ青年は何も思い出さない。
これがいつまで続くかもルシアにもそれこそ青年にも分からない。
もしかしたら、一生かけても思い出さないかも、しれない。
「残念ね」
もう一度、ルシアは表情には出ず、上っ面だけの言葉に傍からは見えようと心の底からそう呟いたのであった。
四部構成です...(滑り込みアウトだよね、知ってる)




