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546.名は体を(中編)


「いえ、イオンを従者としたのはわたくしです」


静かに、しかしながら躊躇(ためら)うことなく、堂々と。

真っ直ぐに灰の瞳を(たずさ)えて、ルシアははっきりと宣言する。

それはルシアの視線の先に同様にして、ルシアを見返す老爺が告げた言葉に対する返答だった。

老爺は言ったのだ。


『物好きな貴族の当主も居たものだ』


そう言った。

それはルシアがイオンは記憶喪失の末に自分の元へやって来たのだと告げたからである。

そこから、きっと想像したのだろう。

記憶喪失の何処の誰とも分からぬ男を迎え入れた慈悲深くも奇特な当主の像を。

確かにルシアが告げただけの内容ではそう行き着くのが一等、自然であった。


ある意味、その想像が出来たということはこの老爺が貴族のことをそれなりに熟知していることにもなるのだが。

しかし、それはこんな寂れたところでいつ開店するやも不確定の店をやりながらも、店主には違いないことから、そして若い頃はもっと商人として躍動的に活動していたかもしれないことからそれほど驚くことではなかった。


それはそれとして、どうして老爺がそう想像して、そんなことを言ったのか、しっかりと理屈を読み解いたところで冒頭に戻る。

老爺の一等、自然で可能性の高くも一般的なことではないその予測からの言葉にルシアが返せたのは否定であった。


それもそのはず。

イオンを拾ったのはオルディアレスの当主の父でも次期当主たる兄のアルトルバルでも何でもなく、ただの娘のルシアなのだから。

それも腫れ物扱いを受けていた娘である。

普通は有り得ない。

まぁ、ここに有り得てしまっているのだが、色々な要因が上手くこと噛み合った結果である。

割と運によるところが大きい。


そして、慈悲深くも奇特な当主という言葉をあの父に向けるのはルシアにとって、それ以上に有り得ないことだった。

何せ、あの父はああであるので。


「最初に見つけて、我が家へ連れてきたのも父に直談判したのもわたくしです。名もわたくしが」


自分だ、とルシアは告げる。

イオンが従者としてあるのは全て元を正せば自分なのだと。

先程は言い詰まって、イオンに庇われ、明言を避けまでして口にならなかった言葉も断言する。

思い返せば、齢2歳にしてよくやったことだと自分でも信じられない気持ちでいっぱいである。

何があれほどまでの衝動を駆り立てたのか、ルシア自身も分からないけれど。

成ってしまったのだから、仕方がない。


「あれは確か......イオンの目が覚めて七日ほど経った頃――」


ルシアは静かに灰の瞳を伏せて、語り出す。

既にその瞳が映すのは老爺でも店内の床の木目でもなく、過去の映像へと切り替わっていた――。



ーーーーー

イストリアの貴族家としては比較的大きい部類に入るある屋敷でトコトコ、と可愛らしい靴音が床板の石を叩く音が響いていた。

華美ではないが、年月が味を醸し出す建物の様相はそれなりに見応えがあり、かと言って古臭くは映らない。

それも当然、この屋敷はこの国でも長い歴史を持つ貴族家の屋敷なのだから。


そんな大仰な名ほどの贅沢は出来ないけれど、貴族家としては平均的な生活の出来るこの屋敷――オルディアレス伯爵家。

幾人かの使用人が行き交う中で一人、皆が身を包む統一された仕事着とは違う服の裾を(なび)かせる者が居た。


名をルシア・クロロス・オルディアレス。

――御年、2歳のこの家で唯一の令嬢である。


トコトコ、と他の者よりもずっと軽い、可愛らしい靴音を響かせていたのはルシアであった。

上半分を結い上げた長い銀の髪を歩く振動に揺らしてはしっかりとした足取りで廊下を進んでいた。

その姿はまだまだ幼児から逸するには年月がかかるだろうというのに毅然としていて、大人びていた。


ルシアは歩く。

目的地は定まっているのか、逸れることなく、そして寄り道をすることも周囲を見回すことなく、歩く。

そんな少女のことを気に留める者は誰も居なかった。


普通は自分の使える家の令嬢が、それもこんな小さな幼子が歩いていれば、使用人とて声をかけるのが当たり前である。

令嬢に何かがあれば、という使用人としての心配もあるが、人として気に掛けるものだ。

だが、誰もそうしない。


それは令嬢本人が異様に大人びて、大人顔負けに危険を(おか)さず、何でも自分でやってしまうというギフテッドであるのも理由の一つ。

接しづらさと扱いにくさ。

ルシアという令嬢は大人の言葉を理解し、子供らしい手のかかることはしない。

そういう意味では一等、扱いやすい令嬢だった。

だというのに、それがあまりにも子供らしからぬものだから、使用人を始めとした周囲の者たちはルシアを扱いにくいと言うのであった。


そして、問題はルシア自身にだけでなく。

そういったことも相まって、この屋敷の中でルシアを腫れ物扱いせずに接する者は兄のアルトルバルだけと言っても過言ではなかったのであった。


しかし、当のルシアは全くそれに気を留めなかった。

今もこうして、すれ違う使用人たちにそそくさと目を逸らされようとも、普通なら家の中と言えど、話し相手、若しくは専属の侍女などがついて回り、決して一人で行動することはないだろう身分にありながら、完全に一人で放って置かれているのも。

むしろ、動きやすくて気楽だと言わんばかりに。


トコトコ、躊躇いがないからか、規則的な可愛らしい靴音が響く。

そうして、その音はある扉が見えてきたところでテンポを遅くし、やがて止まった。

次にコンコン、と扉を叩く音がする。

ルシアが目の前の扉を視線の高さに持ち上げた小さな紅葉の(てのひら)を握って、叩いた音だった。


「はい、はーい。誰、ですか......」


位置としては扉の下方、ドアノブよりも低い位置で幼子の弱い力で立てられたそう大きくない音は正直に言って、聞き取りやすいものではない。

しかし、その部屋の主はしっかりと聞き取ったらしい。

何でも、他の人より聴覚が(すぐ)れているらしいのだとか。


少しの間を空けて、ドアノブが回される音が響き、扉が開く。

出てきたのはこの家に仕える者が着る仕事着に身を包んだ青年。

20歳前後だろうかと思われる容貌を引っ提げて、その青年はやや眉を寄せて、ドアノブを握っていないもう一方の手で頭を掻いて茶髪を揺らしながら、姿を現した。


きっと、この支度をしている時間に迷惑な、と来客を(わずら)わしくも迎えたのだろう。

現在の時刻は早朝、この屋敷の主人たちが起きるにはまだまだ早いが、使用人が駆け回り、諸々の準備をする為に活動し始める頃合いだった。

一番、来客を鬱陶しく感じられる時間帯と状況である。


それでも、この家で一番の新人である青年は扉をノックする音を聞いてしまえば、出ない訳にもいかないもので。

例え、それが気のせいかと思えるほど小さな音だったとしても確認の為にと扉を開けた。


「ご機嫌よう」


「......ああ、ええと、おはようございます。朝から早いですね、お嬢様」


徒労に終わるのも(しゃく)だが、下手に誰かが居ても面倒だ。

そんな心地で開けた扉の先に居たのは幼い少女――ルシアである。

来客を探して正面から下方に下りてきた紫と黄色の何とも言えない色合いの双眸(そうぼう)がこちらを捉えたのを見て、ルシアはにこりともせず、唐突に挨拶を投げかけた。


青年は当然ながら、面喰う。

誰だって、そうである。

しかし、他の使用人以上にこの家の令嬢でもあり、何より青年にとって恩人でもあるルシアを無碍(むげ)に出来る訳もなく、青年はやや黙り込んだ後に何とも奇妙な心地を抱えたような面持ちでゆるりと笑って、挨拶を返したのであった。


ちょっとした過去編?

長くはしないつもりです(ノックスのことを掘り下げたいと言っていたのは何処のどいつだよ、ほんと)


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