545.名は体を(前編)
ルシアに叱責を飛ばされながらもどこ吹く風とばかりに態度を崩さないイオンにそのイオンから何かを読み取ろうとしているのか、真っ直ぐにやや落ち窪んだ目をそれでもしっかりと向けて、探る老爺。
ルシアはイオンの態度に物申したい心地になりながらも老爺のただならぬ気配に口を挟めずに居た。
「......」
今度こそ、はっきりとした沈黙が落ちた。
入口の近くだというのにその向こうに広がる通り自体が人気がない場所だからか、何の音も聞こえやしない。
鳥の鳴き声さえ耳にしないここは完全に店内とその外で切り離されているようだった。
カチコチ、と時計の針が緩くも正しく規則的に奏でる優しい音だけが遠くに聞こえた。
「...あの、まだやることがあるんで大した用がないなら引き留めないでくれませんかね。我が主が直々に、呼びに来てくださったことですし、従者として、これ以上は待たせる訳にはいかないんで」
どれほど、そうしていただろうか。
険のない睨み合い、然れど、見つめ合いというには愛想がない。
そんなかち合う視線の中で最早、先に逸らした方が悪い気さえしてきた中、すっと視線を外したのは紫黄の瞳であった。
普段はそんな殊勝なこと、絶対に言わない癖に、そんな言葉を嘆息交じりに吐き出して。
イオンは全く気遣う様子も、先程の睨み合いすら馬鹿にするようにただただ、迷惑そうに愛想の一つもない言葉を並べ立てる。
慇懃無礼、それが混じるのを見る辺り、多少は普段通りになっているのかもしれないが、ルシアからすれば、まだまだ反抗期中である。
前半はいっそ癇に障る言い方で、後半は一言一言を区切り、強調して。
にべもない、一向に変わらぬその憮然とした顔で放つ。
というか、人を出しに使うな。
我に返ったルシアは不服たる顔をイオンに突き付けるが素知らぬ顔である。
これは何も進まない、さすがに黙っていられずにルシアは口を開く。
しかし、そこから音が零れ落ちるよりも前に。
「...『菫』、瞳の色から取ったか」
確かに菫と同じ紫に黄色だ、と口調こそは面白がるように老爺は変わらぬ無表情でそう口にする。
確かにイオンのアメトリンの瞳は菫と同じ紫をしていて、黄色も黄色い菫と言われれば、そう見える。
「――イストリアの言葉にお詳しいのですね」
「昔の知人にイストリアの知り合いが居ただけに過ぎん」
ルシアはここでようやっと落ち着いた声音で老爺にそう声をかけた。
イオンの名はイストリアの言葉で付けられたものである。
必然的にそれの意味を読み解けるこの老爺もイストリアの言葉をある程度、理解しているということになる。
それに老爺は静かに、やはり厳かな声音で端的に答えた。
イストリアの知り合いが居た、たったそれだけの言葉だが、説明には何より最もらしい。
「それは誰が付けた名だ」
「それは......」
ルシアである。
老爺の尋ねにルシアは答えを知りながらも言い倦ねた。
答えに窮したのはそう答えて、当然のように返されるだろう次の質問に上手く答えられる気がしなかったからである。
どうして、そんな名前を?
そう聞かれるだろうと思って、ルシアは眉を下げたのだった。
「...あの、別に産まれた時に実の親から付けられた名前でも敬愛する主から貰った名前でも、気に入って自分の物だって大事に思えるんならどっちでも構わないでしょ。少なくとも、あんたには関係ない話だと思いますけど」
ほんと、さっきから何なんだ、そう言いたげであり、まさに今にも飛び出したって可笑しくない機嫌の悪さで眉を寄せたイオンが答えられないルシアの代わりにそう答えた。
険悪までいかずともイオンは鬱陶しそうに老爺を見下ろしていた。
当然ながら、この場の空気は決して良くない。
気不味さとそれでもまだまだ決着の付きそうにない会話と。
この老爺が持ち得る知識に興味がない訳ではないが、如何せん、こちらのペースが呑まれて終わってしまいそうにも思う。
そうなってしまえば、徒労であり、常以上の疲労感を獲得して終わるだろう。
イオンの態度によるところも大きいのかもしれないが、それでも会話の端々から情報を聞き出すという事柄において、厄介この上ない相手であることは充分に伝わっていた。
それはそれとして、大分、恥ずかしいことを口にしている自覚はあるのだろうか、この男。
後で後悔しなければ良いけど、ともしかしてからかうネタが増えた?とも頭の隅に過らせたのは単純にほんの少し、ルシアが現実逃避をしたくなってきたからである。
そういえば、そもそもなんでこうして店主であるこの老爺と会話をすることになったのか?
非礼ではあったが、全く取り合うことなく奥へ戻ろうとしたイオンを咎めて、声をかけたのは自分だということを都合良く忘れ去ったルシアは内心でぼやいたのであった。
だが、その現実逃避も長くは続かない。
というより、続けられなくなったのは偏に一つの視線が突き刺さったからである。
先程までほとんど見向きもしなかった老爺の瞳。
その双眸が今はじっくりとルシアに注がれていた。
ルシアは正面からそれを受け止める。
ただ、口端がひくりと一度、戦慄いたのは仕方ないと言えよう。
「......あの、何か?」
ルシアはじっと見られる視線に耐えられなくなって、そう尋ねた。
何かを聞きたくて尋ねたのではない。
この視線から逃れる為の問いだ。
この視線の理由を聞けば、まだ気分も紛れるだろうか、と思っての問いだ。
そのくらいにはこの視線が居心地が悪かった。
値踏みをされているような、然れど、ルシアの中に内包する何かを探り出そうとするというよりもまさしくルシア自身を見ているようなそれ。
この視線を受けて、居心地の悪さを全く感じない者は居ないに違いない。
そんな視線である。
逃れたくなるのは当たり前。
ただ、ルシアはもう一つ。
その視線に言葉を聞いた。
お前さんか、そのたった一言の問い。
先程、ルシアが避けた問い。
「...イオンには幼少期からわたくしの従者として傍に居てもらっておりますの。記憶を失くしていたところを我が家へ」
問いに対しての解としては正確ではないそれ。
だが、だから名付け親となったのだ、と取れるそれ。
的は射ていないけども、答えには相違なかろうとルシアはそれを口にしたのだった。
小間切れでごめんね。




