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543.紫黄の従者と店主の老爺(中編)


中途半端に浮かせたままの手はイオンの背中に届くには少し遠い。

足共々、ぴたりと止まってしまったそれは目的を達成しないまま、下ろすにも下ろせないまま、まるで挨拶の為に軽く挙げられた手のように宙で留まった。

何とも妙な形になってしまったそれは絶妙に目についてしまうことだろう。

だが今更、下ろしても目につくのは変わらないのは明白なのだから、どうしようもない。


「――お嬢」


「あ、...」


ぐるぐるとコンマ何秒かで普段は整理をつける内容が危うく堂々巡りをし始めそうになったところで静かに呼ばれた自分の呼び名にルシアははっと(またた)いて、イオンを見上げた。

ルシアの視線はばっちりと合ってしまった老爺へ釘付けになってしまっていた為にイオンが振り向いてこちらを見下ろしたことに気付いていなかったのである。

(もっと)も、至近距離には違いなく、空気の揺れやら気配やらで気付けたのだろうから、きっと意識もまた老爺の方へと集中していたのだろう。


イオンのそれはたったその一言であれど、そんなルシアの金縛りを解くのには充分だった。

(わず)かに肩を揺らしながら、ルシアは姿勢を整える。

それと同時に宙に浮いていた手はさり気なく下ろして、もう一方と軽く重ね合わせる。

一瞬のうちにそこには淑女が立っていた。

ルシアは重ね合わせた手を再び(ほど)き、片一方を己れの(ほお)に添える。

そうして、少しだけ恥じらうように困ったように眉を下げて、微笑んだ。


「......わたくしったら、お恥ずかしい。お話し中だったのね。気付かずに申し訳ありませんわ」


ルシアが放ったのは淑女たれ、と人前では楚々として振る舞っているのに常には見せない素を(さら)してしまい、恥ずかしがる令嬢そのものの台詞(せりふ)

動作も完璧に付随しており、まさしくその通りに見えたことだろう。

ただ、ミアのような本当に純粋な深窓の令嬢ならば、こうも完璧に切り替えられずに可愛らしく慌てふためいたことだろうということは百も承知であるが見ない振りだ。

さすがにそこまでの白々しい演技は出来ないもので。

被る猫にも限界があるものである。


ルシアは続けて、はぐらかすようにイオンへ向けて、そして謝罪を老爺へ向けて、紡ぐ。

乱した場を落ち着かせる為である。

ひとまず、区切りを付けてしまえば落ちた沈黙も動き出す。


「ええと、何も話していたのかお聞きしても?」


幾分か柔らかくなった空気。

もしかしたら、自分の心境の問題なのかもしれないけれど。

そんなことを思いながらもルシアは(つと)めて、にこやかにまた空気が沈黙で気不味くなる前にと言葉を紡ぐ。

踏み込み過ぎたか、そう思わないでもなかったが、多少は振る舞いで緩和される上によろしければ、という体はあくまで差し支えなければであって、土足で踏み荒らすつもりはないのだという意志表示にも見せられる。


その辺は抜かりないルシアのこと。

あくまでお(うかが)い、断られたなら残念そうに引き下がるくらいの用意はしてあって、聞ければ、そして会話になれば御の字というところ。

沈黙にさせないという意味でははい、でもいいえ、でも返球があれば、目的は達成なのである。


「いや、ちょっとしたことです。他愛(たわい)もない雑談というか。もう終わりましたんですぐに行きます。呼びに来てくれたんですよね、お待たせしました。――じゃあ、そういうことなんで、俺はこの辺で」


「えっ、イオン?あ、ちょっと!」


しかし、そんな思惑のルシアに返ってきたのは、ルシアのその考えに気付いていないはずのないイオンの否、であった。

しかもイオンはちょっと、何の為にそれを口にして紡いだと思っているの、という顔で見上げるルシアに一瞥もくれずに(まく)し立てるように流麗に言葉を(つづ)り、最後の言葉だけは何処か素っ気無い響きで投げるまま、ルシアの背を押して、その場を離れようとしたのである。

ここには用はない、と。

それ以上に留まっている意味がない、といった風に。


さり気なくも強引に、柔らかくいつも通りの口調の割に有無を言わせないその様子にこれにはルシアも拗ねざるを得なかった。

これは聞く耳持たない奴だ、と瞬時に察してしまったこともあるかもしれない。

挨拶もそこそこに、ルシアに至っては何一つ老爺へ言えないまま、どんどんと棚の群れの方へと歩は進められる。

どうにも、イオンはルシアがどう言おうとここに留まる気がないようだ。


――それはやっぱり、ルシアが来るまでの老爺との会話のせいだろうか。

声を荒げているようではなかったが、イオンの老爺へ対する態度はあまり良いものとは言えない。

ただ、一つ気になることがあるとすれば、イオンが気に食わない相手に大仰なほど慇懃(いんぎん)無礼に振る舞うことはすれど、こんな反抗期の子供のような素っ気無い、ある意味、分かりやすく負の感情を示しているところはほとんど初めて見る、というところか。


そういったのも相まって、ルシアは後ろ髪を引かれるように顔だけでも背後へ、老爺の方へと差し向けた。

先程は目が合っただけで固まってしまった相手。

それは老爺の眼光が鋭く刺さったということもあるけれど、その視線に何らかの意味が込められているようにも思えたからだ。

値踏みにも近い感覚。

決して、心地の良いものではないその視線。

それでも、ルシアは気になって、老爺へ振り向いた。


「――その、お嬢さんがお前さんの主、かね」


ぱちり。

再び、かち合ったように思えた僅かに白んだように見える老爺の瞳はすうっとずれて。

(しゃが)れた声がルシアよりも一つ二つ分、高い位置のイオンの後頭部へと放たれたのであった。


ちょっと、すみません。

また短く切ります。

そして、最終時間です。

ごめんね。


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