540.表紙の竜は何を思う
「え、見てないのに持ってきたんですか?」
「ええ、まぁ。表紙を見た瞬間にこう、.........。ほら、でも、表紙に竜の模様があるから選別対象には違いないでしょう?」
最初に立ち直って、ルシアに尋ね返したのはノックスであった。
普段からそういった役割を担っていることが多いからであろう。
素っ頓狂に抜けたノックスに声にルシアは平素の声で受け答える。
ただ、途中で言い倦ねてしまい、少しの間、悩むように宙を仰ぎ見ていたが、ルシアは結局、説明しかねたのか、見事に彼方へぶん投げて、たった一言に着地させたのであった。
「それにしたって...」
「あら、なあに。ノックス、言いたいことでもおあり?」
「いえ、何でもありません。ルシア様」
ルシアのあまりにも潔く勢い良い投げ飛ばしっぷりにノックスが呆れと共にぼやきを溢した。
表情もありありと現れ、完全に間抜けた顔をさらしてしまっているこのノックスが戦闘時には怖いくらいに表情を引き締め、一騎当千と化すのを誰が信じるだろうか。
ルシアはそんな締まりのない表情を浮かべる己れの従者へにっこりと意識して口角を吊り上げた完璧な笑みを差し向ける。
ノックスは条件反射という勢いで背筋を伸ばし、首を横に振り、即答したのだった。
最初から分かりやすく顔に出さなければ良いというのに、こればかりは学習しない。
けれど、これを克服したノックスは少々、詰まらないと思うのでルシアは敢えて、それを指摘したことはなかったのであった。
「――そう、見てはいないのよ」
「......何だろうね?青年らしき人も竜玉らしき玉も、泉も番人も何もなくて、竜が一頭だけっていうのは竜人族関係?」
「かもしれないわね」
ルシアはもう一度、息を吐いて、仕切り直すように手中の本を見下ろして、そう誰にとも言わないが、言い聞かせるように呟いた。
そうして、表紙の問題となっている竜の凹凸を撫でる。
少し抜けていた空気がしめやかに戻ってくるのを感じたらしいニカノールが流れに乗るように横合いからルシアの手元を見下ろして、推察を、例を挙げていく。
ルシアはまだ中を開かずにニカノールの推測としての的はなかなかに射ているだろうその言葉にどれとも言わずに曖昧な首肯を返した。
――本当に中は見ていない。
ルシアはこの本の中身を一欠片とて知らない。
けれど、ぴんときたのだ。
中身も見ぬままにただ直感に従って、気が付けばそのまま掴んで持ってきていた。
表紙のことも全く関係ない訳ではないだろう。
今までここに運んできたものの中にもそうやって中も見ずに持ってきたものもある。
どうせ、調べる必要があると判断したからである。
けれど、今回のこれは。
この本だけはそういった理由だけではなく、これは必要だと脳裏で警鐘が鳴り響いたのだ。
ルシアはその音を聞いた訳ではなかったが、衝動に駆られるまま、運んできていた。
中を見ずに運んだ類いでもぱらりと開くくらいはしたというのにそれすらもせずに手中へと加えていたこの本。
そういった意味ではこの本も一緒に運んできた番人について綴られたもう一冊と同様にルシアにとっては充分に異質の存在であった。
「......これは」
ルシアは漸くその本を開いた。
いっそのこと、恭しささえ思わせる繊細で丁寧な動作で表紙を掴み、開いた。
そうして、飛び込んできた最初の数行を読んで、ルシアはぽつりと呟いた。
「――これ、日記?」
「そう、みたい。......女性かしら」
本と思っていたこれはどうやら、誰かの日記らしかった。
日付も何も書かれていないけれど、日々を綴った古代日本では随筆と呼ばれるものの類いに近いか。
ただ、書き口から女性のようであるのは伺えた。
そこにはなんてことのない日々が、平穏で変わらない日常があった。
読み進めれば、区切りで日を跨いでいる場所は分かるが、頁数はその時その時でまちまち、日によっては一行だけでその空白が勿体ないとばかりに一行分の白の後に新しい一日が始まっていたりする。
かなり自由気ままな書き方で一人の女性の生きた日々が詰まっていた。
日記としても人によってはもっとかちっとしていそうだし、到底、書物と同様の丁寧さはない。
所々、書き直したと思われる後もある。
――そんな、ただの日記。
一頭と一人の物語、深山、ましてや竜人族の欠片も出てこない、これはある一人の女性の物語よりもずっと鮮明で五感のある日記だった。
「ルシアお嬢さんはこれが気になったんだよね?」
「......ええ、琴線に確かに触れたの。けれど、何処にも今回の件に関係しような記述はないわね」
どう見ても全く関係のない、今回、必要としているうちには入らない代物である。
それは火を見るよりも明らかだった。
だって、どれとも掠りもしていないのだから。
このまま紛れてしまっても面倒だ。
本当なら、今すぐにこれは元の場所へ戻しに行くべきだろう。
幸い、ちゃんと集めてきた品々は元の位置へも返せるように記録を取っているし、事これにおいてはルシアがその場所も入っていた書棚が食器棚ともつかぬアンティークの棚であったことも、中にあった数冊だけのその並びの何処にあったのかもくっきりと覚えている。
元に戻すのは容易い。
けれど、ルシアは読み終えて、再び閉じたそれをじっと凝視するだけで手放そうとはしなかった。
出来なかった、とも言う。
未だにこの日記に宿る何かがルシアがそう行動することを塞き止めていた。
「どうして、竜の表紙なのかしら」
「......竜がお好きな方だったということでしょうか?」
「そう、なのかしら」
普段であれば、さっさと踵を返して、一直線に書棚へ返却し、舞い戻り、さぁ始めようと言わんばかりに提案するように宣言するように次にすべきことをルシアは言い放っていたであろう。
けれども、ルシアから放たれたのは小さな疑問。
気にも留めないような、そんな小さな疑問。
普段であれば、中身が掠りもしていない以上、幾ら表紙が竜であれど、ルシアはこれを選択肢から排除していたであろう。
けれども。
ルシアの小さな疑問を拾ったのはミアであった。
首を傾げながらも挙げられた例えはまぁ、ありがちで思い付きやすい、つまりはそれに見合った可能性の高さを持つものである。
中身が全く関係ない代物な以上、そういうことなのだ。
偶然、この日記を綴った女性が竜が好きだったのかもしれないし、もしかしたら、適当に選んだだけで好きですらないのかもしれない。
ここは竜に関する資料が段違いに見つかるものだから、ルシアが手に取った時と同じように表紙だけで納められたのかもしれない。
ただ一つ、著名人でも何でもない人名の一つだって出て来やしない価値があるとも思えないただの日記が店の棚に並んでいることだけは少し違和感があるけども。
何故、ルシアはこの変哲もない一冊に引き寄せられたのだろう。
別にルシアは自分にミアのような補正も引きがあるとも思っていない。
けれど、今までで殊の外、役に立ってきた本能的な直感が信用できることは自信を持っていた。
その直感が反応したのだと思ったのに。
「......」
ルシアは静かにそれを見つめ、見下ろす。
表紙の竜はただの装飾なのか、それとも――。
内容は至って普通の女が息子と共に旅をしている過程の日常を描いた日記。
けれども、直感が反応したのだと思いつつ、ルシアは結局、それを見つけた書棚へと返すことをしないまま、手元に残したのであった。
八月も終わりですね。




