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533.ガラクタの山の中に眠る彼の絵画(中編)


目を奪われる。

そんな体験をこの16年間、一度もしたことがないなんてことはない。

だけども、その体験というものは不思議なもので今まで見てきたものでこれ以上のものはないのではないかという感覚に襲われるのである。


勿論、なかなか冷め切らない熱が(のど)を過ぎてしまえば、もう少し冷静に順位付けしようもあるのだが、その時ばかりはいつだって、そう思うのだ。

それだけ、目を奪われるという現象は人の目だけではなく、心を焼き尽くすことだと思う。

他の人がどのように解釈しているかは分からないが、心の底からそう思うのだ。


時には途方もない緻密さを成り立たせた人工の美しさを。

時には大自然の中でしか見えることの出来ない天然の凄まじさを。

移ろいゆくものもあれば、普遍的なものもある。

完璧が圧倒的な存在感を放つ場合もあれば、曖昧や(はかな)さが(かすみ)のような不確かさがそれでも鮮烈に記憶に残ることもある。


――ルシアはそれを見た時、感動のようなものを覚えた。

そして、その理由を上手く自分でも見出すことが出来なかった。

そのくらいにただ漠然と感じたのである。

圧倒するほどの鮮烈さで焼き付いたその何かを。

きっと、何年先でも鮮やかに(よみがえ)るであろう記憶として刻まれた目前の光景と共に。


「......これが」


「......」


思わず、一歩。

目線を奪われつつ、踏み出してルシアの横に並んだニカノールが呆然としたようにそう呟いた。

ルシアはそれを遠く静かに聞きながらも目線は同じく固定である。


ルシアたちは例の絵の前に立っていた。

あの、一頭と一人だけが描かれているイストリア以外では少々、珍しいモチーフだというだけだった鍵となるかもしれない例の絵の前に。

様々なものが乱雑に放り込まれたよっぽどの変わり者が管理しているのであろうと思わせる倉庫のようなこの空間で。


――それは一言で言えば、何の変哲もない絵だった。

希少な画材を使っている訳でもなく、リアルに鮮明に描かれているのでもない。

何処か全体的にぼやけているようで抽象的とも言えるかもしれない。

竜の表情も男の相貌すらも(うかが)えない代物。

場所も相まって、みすぼらしいまであるかもしれないそんな物。


それは、ミアの言った通りの状態でそこにあった。

古時計を越えたところではまだ棚の折り合いに視界に入りさえしなかったそれは本当に唐突として、ルシアたちの目に飛び込んできた。

店の奥まった先のこれまた両脇を棚で固めて小さな突き当たりのようになったそこ。

その先にそれはイーゼルに乗せられて、こちらを向いて置いてあったのである。


視界に飛び込んだその瞬間はまだ少し絵までの距離があったというのに皆が揃って足を止めた。

言わずとも、まだ頭が絵の表面をなぞるだけで描かれている内容まで読み込み切る前であったのにも関わらず、ルシアたちは直感的にそれが求めていた絵であると感じた。

それが足を止めさせたのである。


先頭を行っていたルシアとミアが足を止めたから進めなくて止めたのではない。

ただ、自然と足が止まって、その絵に見入ってしまったのである。

唯一、二度目のミアだけが紹介するかのように立ち止まって、皆の反応を見て、衝撃が抜け切るまで、と静かに黙したのである。


そうして、ルシアたちは黙ったままその絵を見ようと近寄った。

あと数歩で触れることも出来るという距離まで来て、また立ち止まったのである。

一番、絵の全容がしっかりと画角に納まるとでも言いたげな位置である。

そこまで来て、初めてルシアたちは遠近とは別にその絵自体がぼやけている曖昧なタッチで描かれているのに気付く。


――木漏れ日のように背後の壁にある小さな高窓からの陽光を受けて、絵の周囲は舞っている(ほこり)がきらきらと輝き、何処かの宗教画のようでもあった。

普通は絵が痛むので()せさせない為にも直射日光は避けるのだが、そこに行き着くよりも前にただその光景を眺めたのである。


ただ、目を穿(うが)たれた。

この時ばかりは王子の美貌もミアの愛らしい笑みも戦場を駆けた後の朝焼けも前夜の星空も全てを置き去って、ルシアはここに居た。

ただ、目の前のそれに意識を奪われていた。

だから、ミアのちらりとした視線を受けても(つくろ)わず、ニカノールの呟きにも何も言わずに絵を注視していたのであった。


それは酷く鮮烈で神々しささえも感じ、目を奪い。

――そして、何だか心を搔き乱すかのような懐かしさを(まと)っていた。


「......『すべてのはじまり』」


「ルシア、さん......?」


口が勝手に動いたようにルシアは気付けば、そう溢していた。

誰もが黙するこの場では先程の古時計の秒針の音すら響き、届いており、当然のようにルシアのその小さな一言はしっかりと誰の耳にも届いていた。

ミアがぱちくりと目を(またた)かせながら、ルシアに声をかける。

それだけ、その言葉は何処か異質で脈絡のないのに実感の篭ったもののようでもあったからである。

当の本人は何故、自身がそう溢したのかも分かっていやしなかったというのに。

ルシアもまた口元を押さえて、ミアに目を合わせ、ぱちくりと瞬く。

そうして、ゆっくりと息を整えるように数秒を要した後、ようやっとルシアは口を開いたのであった。


「ごめんなさい。何だか分からないのだけれど、そんな言葉が浮かんでしまって。それにこの絵はイストリアを思わせるでしょう。ここはスカラーの街だと言うのにね」


そんな訳ないのに。

そんなニュアンスで放たれたその説明はルシアが漠然と感じた何かと同様に言語化するのが難しい感情や思いであった。

今、無理に言葉にしようとすれば支離滅裂で大まかな感覚は伝われど、そのままの感覚を伝えることは出来ない陳腐な何かに成り下がってしまいそうで、そんな言葉をこの感じた感情に、この絵には使いたくなくて、ルシアは説明とも言えないそんな言葉少なに告げたのだった。


再び口を閉ざして黙り込んだルシアは何かを考えているようで、けれども感じている何かに細めている目は何処までも透明で心がここにはないようで。

正面からそれを見たミアは何とか引き戻そうとするかのように話題を振ろうとして何と声をかけて良いのか分からずに眉を下げて、きょろきょろと完全に目を泳がせてしまっていた。

焦りだけが先行して、逡巡しているが空回りしているようで、そうしているうちにも早くと焦り、せめて声をかけるだけでもとミアが口を開きかけた時。


「――白銀の一頭と青年らしき一人、そして薄暗そうな場所に(わず)かに灯ったように彩度も明度も本来のバランスを考えれば一つ分くらい高い泉、のような水色の影。ニカノールは描かれているのはあの場所だと思う?」


――かつん。

板の床が叩かれて音を立てた。

何にか、と言うと一歩、ただ一歩で大きく絵へと近付いてはそれを食い入るように覗き込むルシアの履いている(くつ)に、である。

既にルシアの目はただ前だけを見つめていた。


「え、あ、ああ、うん。全体的にぼやけて描かれているし、はっきりとした場所の特定ともならない絵だけど、――俺はあの場所だと思う」


ルシアの唐突な言葉にニカノールは一瞬、自分への問いかけと認識出来ずに一拍を置いてから返事をする。

慌てたようにルシアの横まで駆け寄って、ニカノールも隣で覗き込むようにして、絵をじっくりと近距離で観察した。

ただ、考察のようにルシアの問いに答えていくうちにニカノールもまた真剣な顔をし始めていた。

そうして、最後に低く、とても静かで大きな声でもないというのにどんと圧し掛かるような重みを含んだ断言をこの場に響かせたのであった。


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