51.弓を鳴らすは(後編)
「お貸しいただきありがとうございます。お返ししま...?」
あまり、借りたままでは悪い。
十分に詳しく見ることが出来たから返そう。
そう思い、ルシアが弓を渡そうとした時、何処からか強い視線が感じられて、ルシアは言葉を止めて振り返ろうとして、出来なかった。
次の瞬間、マノリトによってその背に引き摺り込まれたからである。
何事......!?
その一言がルシアの口から飛び出す前に視界に何かが過って地面に刺さる。
「っ!?」
それは紛れもなく、矢だった。
先程までルシアの立っていたところに見事に刺さっている。
射られた...!!
ルシアは咄嗟に辺りを見回した。
矢の方向と角度で割り出せる、瞬時に思い至ったにしてはルシアの頭はこの場で出来ることの中で最適解を弾き出したのだ。
そして、木々の一本の葉の中に違和感のある暗がりを見つけて、ルシアは後先何も考えずにマノリトの後ろから飛び出して飛んできたばかりの矢に手を伸ばす。
「王子妃殿下!!」
その普通の令嬢には到底、あり得ない行動にマノリトは焦った声でルシアを呼び留めようとするが間に合わない。
そして、さすがにこの行動はルシアをよく知る二人にもあまりのことだったようで彼らも呆気に取られた分、初動が遅れた。
結果、ルシアは止められることなく、矢を地面から引き抜いて、マノリトに返し損ねた弓に番えることが出来た。
誰もが予想だにしていなかったルシアの行動。
時間にしてみれば本当に玉響の如くのほんの一瞬。
その間で弓は誰に邪魔されることなく、ルシアの手によって引き絞られ、矢が真っ直ぐに放たれた。
残るは引き終えたルシアが凜とそこに立っているだけである。
誰の目にも時間が一瞬、止まっていたかのような錯覚を見せた当人の灰の瞳は逸れることなく、矢の一線へ。
誰もがその光景に目を奪われて、また時間が止まる。
「!」
一本の木が大きく揺れて影が飛び出す。
我に返ったイオンは一番に木々へと突っ込んで追いかけようとした。
続いてオズバルドとマノリトがルシアを庇うように前に出るがルシアは意にも介さず声を張り上げた。
「イオン!!」
「なんでですか、お嬢っ!!」
イオンはその名を呼ぶ声が自分を止めるものだと正しく聞き分けて振り返り吼える。
早くしなければ逃がしてしまう。
そう焦燥が見て取れた。
「無駄よ。貴方には追い付けない。たとえ、追い付けても貴方は勝てない。」
ルシアは正しく状況を見ていた。
こんな王宮の一角に忍び込めて、矢を放つその瞬間までイオンたちに気配を掴ませなかった。
相手は相当の手練れだ。
少なくとも、一般人でしかないルシアでも肌で感じるところがあったのだから、それはイオンにもよく分かったはずだ。
「何事だ!!」
訓練場の方から王子が駆け寄って来る。
先程のイオンの声が聞こえたのだろう。
「...カリスト殿下、先程何者かによって王子妃殿下が射られました。私の不徳と致すところながらみすみす取り逃がしてしまい、...」
瞬時に頭を垂れて簡潔に説明するマノリトの言葉に王子は目を丸くして、怖いくらいに顔を顰めてルシアに詰め寄った。
「カ、カリスト。大丈夫よ、何処も怪我してな...」
さっきまでの肝の据わりようは何処えやら。
ルシアは一瞬で顔色を失くし、たじたじになった様子で後退るがガシッと王子に手を掴まれてしまい逃げられない。
より一層、怖くなる王子の顔の迫力たるや。
般若だ、般若がここに居るよー。
凄まじい美貌の般若がここに居る。
「...何が大丈夫だ。こんなに震えていることも気付いていない奴が!」
言われて初めてルシアは自分の手を身体を見下ろして自分が震えていることに気付き、目を見開いた。
自覚してしまえば、己れの膝が笑っていることにも気付く。
「最も物理的な方法で命を狙われたというのに大丈夫な人間など居ない」
「...ええ、そうね。ごめんなさい」
ああ、夢中になっていたから今になって恐怖が押し寄せてくる。
ふと、考えるよりも身体が動くのでは脳筋では?と思えるくらいには周りが完全防備状態なことに気が抜けたらしい。
「あー、もう立っているのがやっとだわ。イオン、抱えて...わっ!?」
自室まで運んでくれと続けようとして急に視界が揺らぎ、目を白黒させる。
気が付けば王子がルシアを横抱きにしていた。
「カリスト!降ろして!!」
「君が歩けそうにないと言ったんだろう」
「だから、イオンに運んでもらおうとしてたのよ!」
「なら、俺でも支障はないだろう」
ルシアはぐっ、と言葉を詰まらせる。
それを言うなら王子である必要もないよ!
「...執務室へ行くんじゃなかったの」
「急ぎではない」
しらっとした顔で一向に降ろしてくれる気配がない。
イオンや他のメンツに助けを求めて目を向けるが速攻で逸らされる。
これは、私じゃどうにもならない。
かと言って、誰一人としてルシアの助けを聞いてくれる気配はない。
王子の腕は逃がすか、とばかりにやけにしっかりと組まれていて隙を突いて外し、逃げ出そうにも出来ないし。
「...分かったわ。なら、部屋までお願いします。...マノリト様、弓を勝手に使用してしまって申し訳ございません。こちら、お返し致します。」
「いえ、私などがルシア様を非難することは何も。」
「マノリト、ルシアにはもっと怒った方が良い。」
「カリスト!」
諦めて、ため息を吐いたルシアは抱えられたままマノリトの方へと弓を差し出す。
ルシアの謝罪もにこやかに返答した彼へと王子が要らないアドバイスを送るのに、ルシアは王子の名を叱責するように呼んで、口を引き結ぶ。
「今回は運が良かっただけだ。何度も通用する訳がないのに、また同じように立ち向かわれたら敵わない。ルシア、絶対に、弓を覚えようとか考えるなよ」
「...」
「返事」
「...分かったわ」
絶対に、の部分がやけに強調された王子の言い回しにルシアは鋭い視線との睨み合いの末、根負けをして、頷いた。
何だか最近では王子もイオン並みにルシアの思考を読んでいることがある。
私ってそんなに分かりやすい方ではないよね?
ルシアの返答に一応、満足したのか、部屋へと向けて歩き出した王子に慌てて、ルシアはバランスの取りやすいように肩に手をかけた。
「ねえ、カリスト。これが今回の件の黒幕ならば、次は狩猟会が一番の狙い目でしょうね」
「...そうだな、可能性としては高いだろう。勿論、君は留守番していてもらうが」
ルシアは王子に犯人の今後の行動についての推測を告げる。
数日後に離宮で行われる狩猟会。
王子は勿論のこと、ルシアもレジェス王子も参加予定となっていた催しだ。
これ以上の恰好のチャンスなんてない。
それに対する王子のにべもない返事にルシアはむ、とした顔を向けた。
「あら、私は参加するわよ。護衛を分散させるのは良いとは言えない。何より、狩猟会の最中に私が王宮で襲われたりするより、駆けつけられる距離に置いた方がずっと安心ではない?」
ルシアの言い分に納得してしまったのか、押し黙る王子に後一押しか、とルシアは考えを巡らせる。
「参加と言っても離宮に留まり、他の女性参加者から離れないわ。イオンも連れて行くし、矢の飛ぶ森へは入らない。誤射だという大義名分を与えてなんかやらないわ」
「......はぁ、分かった。絶対に離宮から出ず、イオンから離れないこと。ピオ、当日はルシアに付いて何かあれば即連絡を。イオン、ルシアから目を離すな」
おいおい、そんな過剰警戒してどうすんだ。
それにそれじゃあ、犯人の襲撃より私の暴走癖を最大危惧してるよ!
じとー、とした目をルシアは向けるが、王子は気にも留めない。
ルシアは釈然としない顔をしたまま、それは改善されることなく、王子によって自室まで送り届けられたのだった。




