523.無垢な姫君の手を引いて
「これはまた......」
「え、ええと、私、何か不都合なことを...?」
「...あー、いいえ。そうではないわ。ただね...」
地図を買うよりも早いとニカノールがスケッチブックの新しい頁にスターリの街の地図を簡易に書き込んだそれを囲んでミアの示すまま、次に次にと細かくその周囲を絞っていった数枚目のこと。
今、三人が見下ろすそれは既に通りだけでなく、一軒一軒の家や店までもニカノールの記憶を頼りに名前まで記入されているほどには詳細なものとなっていた。
だが、しかし。
それを見て、当の三人が次々と上げた声は先の通りであった。
それと言うのもミアの指したその場所。
このスターリにおいて、主に通りというものは表と裏の二つに分けられる。
裏通りには容易く踏み込めない。
それは裏通りの住人であるニカノールも実際にその二つを隔たる惑わしの小道を体感したルシアも知るところ。
果たして、ミアの指したその場所は表通りではあった。
そう、表通りではあったのだ。
さすがに裏通りへと迷い込むことはなかったらしい。
そう、そうなのだ。
実はここに居る少女、ミアはれっきとしたイストリアの貴族令嬢であるにも関わらず、護衛の一人も傍に居ないと思えば、絶賛、はぐれて迷子中だったのである。
彼女は最初、泊まっていた宿を護衛と侍女を一人ずつ連れて出発したらしい。
ところが街中の散策中にごく小さないざこざが発端のトラブルに巻き込まれ、護衛は証人として残し、侍女と二人で宿に戻ることにしたらしい。
しかし、これまたその途中で人波に押し流され、結果、ミアは一人はぐれてしまったとのことだった。
その後、彼女は自力で宿に戻ろうと記憶を頼りに歩いていたらしいが、良くも悪くも彼女は生粋の貴族令嬢。
無垢で無知で――無謀。
本来ならば、直ちに真っ直ぐ宿へと戻るべきであった。
世慣れしていない貴族の子女ほど狙われやすいものはないのである。
その理由の一つ、無垢で無知で無謀であるが故の楽観視を発動したミアは周囲に映る店先に並ぶ品々に目を惹かれるまま、ほんの少しだけと自分に言い訳をして、散策を続行したとのことであった。
ミアが例の絵を見かけたのはそのはぐれた後のことだったという。
一人で彷徨うように歩いた道中でそれを見た。
そうして、そのまま歩き続けてニカノールと出会い、ルシアと合流し、今に至る。
ミアが例の絵を見かけたのは表通りのある店であった。
とは言っても、表通りの外れも外れ、中央の通りからは入り組んだ道を幾つも越えたそんな先。
良くもまぁ、無事だったことだ。
その辺りはヒロイン補正がものを言った結果なのか。
ルシアには分からないけれど。
「うーん、治安が悪いって訳じゃないよ。行っちゃ駄目って訳でもない。ただ、...専門的な色が強いっていうか、観光客は勿論のことスターリの人間でもその筋の人間しか行くことがないというか。まぁ、そういうところは裏通りも似たような感じではあるんだけど」
「つまり、販売店より研究所に近いということかしら?」
「ああ!そうそう、それが一番、しっくりくる」
俺も散歩がてら数回だけ足を運んだことはあるけど、鍛冶屋がないから滅多に行ったことない、と続けたニカノールにルシアは例えを持ち出して問い返せば、ニカノールは顔を明るくさせて、大きく頷いた。
スターリの人間で言うところの表通りの裏通りのような場所らしい。
言い得て妙だ。
ルシアはミアをちらりと横目で見つめた。
当のミアはルシアのその視線に気付かずに自身が迷い込んでいた場所がそんな場所であったことに純粋な驚きの声を上げている。
ルシアはその様子を見て、ほぅ、と息を吐いた。
これは意図してそこに行ったのではなく、本当に気の向くまま、流されるまま、進んだ結果のことらしい。
それにしてはあまりにも奥まった場所。
何処をどう歩いたら、意図せずに行き着けるものなのか。
「...考えても仕方ない、か」
「えと、ルシアさん...?」
結局のところ、出ない答えだとルシアは考えるのを放棄した。
今、重要視すべきは別にあるということもある。
だが、嘆息したい気持ちまでは収まらず、ついつい口から出たそれにミアが恐る恐るという様子でルシアの顔を覗き込んできた。
ルシアはそれに何でもないわ、と答えて、手をひらひらと横に振った。
絵があった店はそんな場所において、一応、店の体を取っていたという。
ミアはあまり店先に品を並べていない、そもそも店なのか分からない家々の並ぶその通りでふいに気になったその店に足を踏み入れたと言った。
店先にはそれほど物は並んでおらず、どうして気になったのかは分からないらしい。
ただ、その外観なのか、雰囲気なのか、惹かれたのは確かでミアはおずおずとではあるが店内に入った。
そこは何かの雑貨屋のような場所だったらしく何の店かと言われれば、とミアはまた眉を下げた。
ごろごろと色々な物が中には何であるかも分からないものが棚に並んだり、床に置かれていたりしたようだ。
店の奥の端の方に老年の店主が椅子に腰掛けて座っていたという。
その老人はちらりと入ってきたミアに一瞥をくれたが、それ以降、何を言うでもなく、ミアは少しだけ居心地の悪い気持ちになりながらも興味を惹かれた心までは阻害されずにそのまま店内を歩いたらしい。
駄目であれば、咎められるだろう、とそう考えて。
そうして、ミアは店の店主の座っていた位置よりもずっと奥まったところでその絵を見たという。
まるで、隠されるようにすぐ近くまで近付かなければ、そこに空間があることすら気付けないくらい棚と棚に遮られて先にそれはあった。
隠されているようにも思う、少なくとも人目が付かないようにされていたその絵。
しかし、ミアはそれを本当に隠しているとは思わなかったらしい。
それはその絵が乱雑に打ち捨てられている訳でも他の絵や物と共に積まれている訳でも立てかけられている訳でもなかったから。
埃こそ被っていたものの、その絵はイーゼルに乗せられて確かに飾られていたのだとミアは言う。
そこに見えない位置に飾られていたのだと。
「――取り敢えず、場所は分かったわ」
「そうだね」
「...申し訳ありません、あまり役に立てず」
すっと顔を上げて、先を見据えたような色を瞳に湛えて、ルシアはそう言った。
今から行動に移す、まるでそう言っているようであったし、この場に居るミア以外はそう受け取った。
ニカノールも首肯して、スケッチブックを片付け、下ろしていた鞄を肩にかけ直して、立ち上がった。
ミアだけが申し訳なさそうに謝罪を口にする。
「あら、充分に貴女は役に立ってくれたわ。貴女からこの話を聞くまで私たちは本当に手詰まりだったのよ」
「そうだよ、これだけでもすっごく有り難いんだからさ」
ルシアはそんなミアに作ったものではない本心を乗せた笑みで笑いかけた。
だって、本当にこれだけでも充分に助かったのは事実だったから。
ニカノールも追随するように言葉を紡ぐ。
手掛かりになるかもしれない、たったそれだけのことが今のルシアたちにとってどんなに重要なのか。
もし、その店に本そのものがなくても良いのだ。
次に繋がる、先に進むかもしれないことがルシアたちにとって大切だった。
もっと詳しく知れる何かがあるかもしれないだけでも。
もしかしたら、そこの店主が僅かでもその絵の由来を知っていたならば。
勿論、そこでまた手詰まりになることもあるだろう。
とんだ見当違いなのかもしれない。
全てが上手くいく訳ではないのは現在進行形で実感している。
だけども、可能性があるならば。
これはルシアたちにとって僥倖なのである。
「例を言うわ、ミアさん。協力してくれて本当にありがとう。これで少しは目的に進めそう。貴女のお陰よ」
「いえ、私はそんな」
ルシアの手放しの感謝にミアは恐縮したように肩を竦める。
それにルシアはふふ、と笑った。
ミアはその普段見る完璧な隙のない笑みではなく、何処か幼さすら覗かせるルシアの笑みに惚ける。
次の瞬間にはもう、ルシアはすっとした涼しい表情で真っ直ぐな瞳を前へ向けていた。
「さて。それじゃあ、今からその店へ、と言いたいところだけれど、まずはミアさんを宿に送るのが先決ね」
「え」
「ああ、うん。そろそろ、送ってあげないと不味いだろうね」
「え...!」
ルシアはぴんと背筋を伸ばして、次の行動へ移れる態勢でそう言った。
話題の当人であるミアが驚いたように声を上げる。
ニカノールもルシアに続き、ミアから聞いた宿泊しているその宿はこっちだと指して、頷いたところでまたミアから声が上がった。
「あ、あの...!ルシアさん、方は用事があるのでしょう?これ以上、私に時間を取られる訳には――」
「え、でも」
既に一歩、広場から去ろうとしていたルシアたちの背に向けて、ミアはそう小さく叫んだ。
まぁ、今までの話を聞いていればルシアたちには目的があり、その為に今も時間が惜しいはずと考えつくのも当然だ。
それなのに、勝手に出歩いていた自分の為に時間を割いてもらうなんて、というのがミアの考えであった。
しかし、その言葉を聞いて、振り返ったニカノールは困ったように頭を掻いた。
そして、ルシアも少しだけ小さな子供を見るような目で踵を返して数歩、戻ってミアの前に立つ。
「こんなところで貴族令嬢が一人で居るのを見て、放ってはおけないでしょう。街というのは貴女が思うよりずっと穏やかで安全で気楽だけれど、同じだけ荒々しく危険があるものなのよ」
きっと、危険性というのはベクトルが違うだけで何処でも違わないとルシアは思う。
勿論、一概には言えないけども。
貴族の優雅な暮らしも平民の忙しなくも豊かな暮らしも、また貴族の毒や武器を用いられたいとも容易く行われる暗殺、平民の強盗、その手の輩に出くわすこともただ、ほんの少し理由や目的が違うだけで。
もしかしたら、違うもないのかもしれない、とルシアは時々、思うのだ。
人の命の軽さ、なんて言いたくもないけれど。
果たして、貴族と平民のどちらの方が軽いのだろう、と思う時がある。
「ほら、行きましょう」
「あ、......はい」
ルシアはミアへ手を差し伸べ、促す。
ミアは幾つかの逡巡をルシアやニカノール、イオンたち、そして空中へと視線を彷徨わせて見せた後、こくりと頷いて、ルシアの手を取った。
よろしくお願い致します、そんな小さく可憐な声を合図にルシアは歩き出したのであった。
長ごうなりました。




