522.一歩の前進、その絵が示すのは
『――確証はありませんけれど、それでしたら見かけたように思います...』
少女は、ミアはなんてことのなようにそう言った。
道の真ん中という周囲の賑わいの音も途切れぬこの場所の空気が、音が一瞬、しんと静まり返って、時が止まったようだった。
実際にはそんなことはなくて、ルシアがそう錯覚しただけのことなのだが、それだけその言葉に全てが奪われたとも言う。
「え、何処で」
思わず飛び出たそんな声で身をミアの方へと乗り出したのはニカノール。
またも沈黙を蹴破って、周囲の目線すら気にも留めずに詰め寄りこそしないが、ニカノールはミアに続きを促した。
そこには醜態を晒すほどではないものの、深刻な表情で黙秘は許してはもらえない雰囲気を纏っている。
まぁ、ここまで難航した何よりも欲しい情報、それも彼にとっては行方の知れない幼馴染に辿り着くかもしれない代物。
それが今、目の前にあるかもしれないのだから、裏の事情を知っているルシアにはニカノールの心境が手に取るように分かった。
そして、ルシアもミアに視線を向ける。
ルシアとて、その情報が欲しいのだ。
当のミアは視線が一気に自分へ向けられたことにたじろいだ。
彼女も貴族令嬢であり、その美しい顔を思えば、集中する視線など慣れていそうなものだが、その初々しい反応もまさにらしいとも思えた。
まぁ、向けられる視線にも種類がある。
こんな険しさすらも含んだ内を暴くようなそれには慣れていないに違いない。
――殺意を含んだそれにも当然のように。
ふと過ったそれと同時にルシアは王宮での夜会や何かしらの行事の際に彼女を見かけたことはなかったな、とも思い出す。
精々、最初の婚約パーティーとタクリードへ出発するあの日くらいなのだ。
ルシアがミアを王宮内で見かけたのは。
「あ、あの、とは言っても、私が見たのは本ではないん、です」
たじろぎながらも真剣そうなルシアたちにお目当てそのものでないことに申し訳なさそうな顔をしながら、それでもミアは言葉を一生懸命に紡ぐ為に口を開いた。
そんな顔をする必要も絶対に協力をしなければならない訳でもないのにミアは真っ直ぐに事情の一つすら知らない癖に彼女なりの真剣さで臨んでいる。
とてもお人好しだ。
感受性が高いのだろうとも思う。
だが、ルシアはその言葉だけでは収まらない何かがあるような気もした。
「どういうこと?」
「は、はい。私、が見たのは本ではなく、絵なのです。泉ような場所の前で白銀の竜と一人の青年が描かれているもので、イストリアでは何でもないものですけれど、他国でも見かけられるとは思わず、珍しいと思って」
今度はルシアが続きを促せば、つい目を奪われたかのようにじっくり眺めてしまい、記憶に残っていたのだとミアは告げる。
本ではなくて、絵。
確かにイストリアならばごろごろとそこらに転がっているくらいにはありふれた題材である。
けれども。
けれども、ここはスカラーのスターリ。
ルシアはそこでミアにではなく、ニカノールへと視線を差し向けた。
「ニカ、例の話以外にそんな絵の題材になりそうなものは」
「......竜玉のことがあるから竜の出てくる話は全くない訳じゃないよ。でも」
泉が印象的で青年に竜、それも白銀の竜が出てくるのは。
ないよ、とニカノールははっきりと断言した。
ルシアはその言葉にふむ、と思考を回し始める。
そこに戸惑いや焦りは既になく、ただ真っ直ぐに目の前の情報に集中し、ルシアは酷く理知的に答えを探す為に行動していた。
イストリアの第一王子妃を知っている者が思い浮かべる氷の白銀姫の顔で凛とその佇まいが何よりも得難く美しいのだと突き付けるように。
何より、それが一番、ルシアに似合う姿であることを果たして、本人は知っているのだろうか。
「なら、私たちの目的のものに関連する可能性は高そうね。――ねぇ、ミアさんどんな絵だったか、もう少し詳しく教えてくれる?」
「あ、はい」
私に出来ることなら。
戸惑いでころころとその蜂蜜の瞳をルシアとニカノールの間で彷徨わせながらもこくこくと頷き、そう続けたミアにルシアはやっぱり何とも言えない心地になりながら、ええ、お願い、と微笑みを向けたのだった。
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「いえ、空ではなくて。...何処かの中、なのかしら?でも、光が強く差し込んでいるようで背景はあまりしっかりとは...」
「そっか。じゃあ、こんな感じ?」
「それです!ええ、背景はそんな風でしたわ!洞窟の中だったのね!」
記憶を辿るように形の良い瞼を閉じて、思い出しながら言葉を紡ぐミアに完全に耳を傾けながらもニカノールは手元ではシャッシャッと音を立てるくらいに豪快に紙へと鉛筆を滑らせて、絵を描いていた。
ニカノールはある程度、注文通りに描き上げたところでミアに見せる。
ミアは記憶の中の絵と一致したのだろうそれを見て、はしゃぐように大きく頷いた。
そして、それをルシアは横から覗き込んでいた。
「......」
「あ、失礼致しました...!お見苦しいところを」
「いいえ、気にしていないわ。普通にしていてちょうだい」
じっくりとニカノールの手元を覗き込むルシアに自分だけがはしゃいでいることに気付いたのだろうミアが恥じ入るように眉を下げて、一歩下がったのをルシアはなんてことのないように返す。
目の前のそれに集中していること、それに関しての協力者とミアのことを無意識に割り切ることにしたのか、吹っ切れた様子のルシアには動揺も何もなく、あまりにも平素のままであった。
「......うん、これやっぱり間違いなく、あの竜と青年だよ。本に載っていた挿絵にこの場面はなかったけど、描写はそっくりだ」
「そう。なら、何としてもこの絵は確認すべきね」
自分の描いた絵を軽く掲げて、力を篭めた声でそう言うニカノールにルシアは真剣に頷いた。
一歩、前進したようなそんな感覚が明瞭にルシアの、そしてニカノールの身体を支配していた。
ミアから詳しい話を聞くにあたって、最初にルシアが言ったのは場所の移動であった。
そろそろ周囲の視線的にも移動する必要があることともう一つ、それを行うには座るか、少なくとも周りに人が居ない環境が良いだろうと判断してのことである。
そうして、ニカノールの案内で移動した先の人通りがない、と言っても過言ではない寂れた広場で花壇の縁に腰掛けて、ルシアが次にしたのはニカノールへ視線を向けること。
その問うような、それでいて行動を促し命じるようなそれにニカノールは一瞬、意味を取り損ねて瞬きをしたものの、すぐに心得たように少し慌てた様子で肩から斜めがけにしていた鞄からスケッチブックを引っ張り出した。
そのスケッチブックはニカノールが情報を纏めている媒体である。
ルシアたちとっての書類の束と同じ。
ニカノールは今回の件に関わるにあたって、普段から使用することの多いそれを代用品としていた。
何より、そちらの方が使いやすいからと。
本来ならば、機密事項をそんなものに書いて、剰え持ち歩くとは、とも思うが、今回のこれは機密事項というものであっても傍から見れば、物語上に登場する道具や食べ物を求めて、探検する子供のような大人であれば、微笑ましくも既に答えの出ているような、そんな程度にしか思われない内容なので見られたら駄目だからと注意する必要もない。
とはいえ、未だに子供の夢から覚めていない奴とからかわれ、名誉には多少、傷がつくかもしれないけども。
後は...まぁ、本当は用心するに越したことはないんだけれど、とルシアは警戒しながらもニカノールのそれを咎めることはしなかった。
それもこれもここまで大々的に街中で話を聞いて回ってたんじゃ一緒だ、と思ったからだ。
そのスケッチブックを見られて陥る危険など、この時点でとっくにいつでも引き起こされてしまうものだ。
尤も、二つ重なることによる確率の上昇がないとは言えないので、無暗に人前で晒さないようには王子が言い含めたのだった。
そんな経緯でニカノールがミアの話を聞いて絵を描き起こしていたのが現在の状況だった。
さすがは職人、絶対条件という訳ではないけれど要点をしっかりと押さえられた絵は上手かった。
そうして、荒削りだが描いていた勢いに反して繊細なタッチで描かれた絵は一応、全容は把握出来る程度には完成していた。
きっと、柔らかな印象で描かれたそれはニカノールの記憶の中のものでもあるに違いない。
竜と一人の、あの物語の一場面だろう絵。
そして、ニカノールにとっては幼馴染への手掛かりで懐かしき思い出を甦らせるもの。
ルシアはそれをじっくりと眺めながら、ゆっくりと頭の中を探る。
見覚えが、だけどそれは一体――。
「お嬢さん?」
「あ、いいえ。――ミアさん、この絵、見かけたというお店の位置をお聞きしたいのだけれど」
すぐ横からかけられた声にルシアははた、と目を瞬かせた。
いつの間にか、瞬きすらせずにいたらしい。
ルシアは何を考えていたかも欠片一つ霧散してしまった脳裏にそっとため息を吐きながら、ニカノールに答えて、ミアへと向き直る。
今はこちらが先決である。
「あ、はい。ええと、この絵を見かけたのは」
ルシアの尋ねたそれに懸命に答えながら、慣れていないだろうに必死に説明をしようと頑張るミアの声を聞きながら、ルシアは目の前のことに集中したのであった。
件の物語なのか、それとも




