50.弓を鳴らすは(前編)
「さて、大抵の情報交換は出来たわね。私は早めに自室へ戻るとするわ」
木陰に座り込んでいたルシアは立ち上がり裾を払う。
続くように皆も腰を上げた。
「ああ、俺は少し片付けて置きたいものがあるから執務室へ向かう。イオン、オズバルド、ルシアを任せた」
王子の言葉に呼びかけられた二名は首肯する。
執務室も王子宮の中にあるが、自室へ向かうのとは少し方向がズレる。
だから、いつものように二人、護衛を付けたのだろう。
「カリスト、ディナーは?」
「それまでには戻る」
つまりは一緒に、ということだ。
うん、時間を忘れて読書や爆睡しないようにしなければならない。
「分かったわ。カリスト、また後で」
「ああ」
王子に背を向けてルシアは自室へと歩き出す。
王子はまだその場から移動しようとはせず、ノーチェやニキティウスと何かを話していた。
これは、まだ何か言っていないことがあるか、推測の域を出ていないことなのか。
どちらにせよ、後で根掘り葉掘り聞いてやろうとルシアは決意した。
ルシアが内心でそんなことを企んでいるとは知らずにイオンとオズバルドも歩いていく。
イオンならば気付いたかもしれないけど生憎、イオンはこちらを見ていない。
「あら、マノリト様」
「これは王子妃様。もしや、カリスト殿下にお会いにいらしたのでしょうか」
「ええ、もうお会いしまして今、戻るところですの。マノリト様はどうなされたのですか」
向かいからやって来たマノリトにルシアは声をかける。
彼がにこやかに挨拶と共に問うたことにルシアも答え、立ち止まった。
会いに来たって言っても呼び出されての上、何より全員集合で、甘い雰囲気など皆無であり、期待する方が無駄というほど会話の内容は何処までも仕事そのものである。
色気の一つもなけりゃ、物騒この上ない。
そもそも、その甘さというものをルシアは、そして王子もきっと望んでないだろうけども。
とはいえ、物騒なのも望んでないけども。
さて、そんなことより彼はどうしたのだろう。
方向からして訓練場に行くのだろうけど、王子の稽古が終わったからこそルシアが呼ばれたはずである。
ルシアが来た時、彼の姿はなかったからてっきりもう別の仕事に戻ったのだと思っていたのだが。
「ああ、実はこちらの練習用の弓の弦が緩んできていましたので張り直そうかと。すぐ引ける場所の方が調整がしやすいですから」
ああ、矢の飛距離を見て微調整するのか。
そうして、彼が差し出し見せてくれたのは一本の弓。
傍目にはどの程度を緩んでいるというのか分からないが、確かに弦の張りが伸びているような気もする。
「こちらはわたくしが触れてもよろしいものかしら?」
私は弓を見て、心なしかわくわくしていた。
弓とて武器には変わらないけどあるのは弓だけ。
矢はないし、弓だけでは危なくなりようがないと思う。
何より、こういった実戦の弓に触れてみたかったのである。
実は前世では学生時代に弓道をやっていたのだ。
そうは言っても、所詮スポーツの技術だし、弓の形も大きさも違うので同じようには考えることは到底、出来ないだろうけれど。
マノリトは少し難し気な顔を一瞬見せたが、ルシアと同じように判断したのだろう。
次の瞬間には快く肯定を口にして、ルシアの手にその弓を渡してくれた。
「確かに緩んでいますわね。」
弓道の型を取るでもなく、ルシアは弓の持ち手と弦を持って引いてみる。
ルシアの力でもそれは軽く撓ったのを見て、確かにこの弓が緩んでいるのを確認する。
こっちでは弓を扱うのは男だけ。
なれば、幼いルシアが全力で引いてもびくともしないほどでなければいけないだろう。
「おや、王子妃殿下は弓に触れたことがおありで?」
「!いいえ、見様見真似ですわ」
少し目を見開いて言うマノリトにルシアはほほほ、と笑って誤魔化す。
全く弓に触れたことのない人物にしては持ち手の握りを無意識に弓道のそれにしてしまっていたので、疑問に思ったんだろう。
確かにスポーツの弓と実戦の弓は違うけれど、元は同じと言っても良い分、初歩は近しい部分があるらしい。
正確には違うのだろうが、ルシアのその持ち方は堂に入っており、それがマノリトを驚かせたのだろう。
けれども正真正銘、今世では初めて触ったから!
「そうですか。では、王子妃殿下には弓の才能がおありかもしれませんね」
「あら、近衛騎士団団長である貴方にそう称されるなんて。わたくしも弓を習ってみようかしら?」
ルシアの言にマノリトは苦笑する。
彼はルシアの素を知らないので、か弱い令嬢の冗談として聞いただろう。
事実、ルシアも弓を習うことに惹かれないではなかったが、先程のは冗談のつもりでの発言だった。
しかし、横でルシアの素をよく知っているイオンがルシアならばもしかしたら、と思ったのか、真に受けた様子でやや焦った顔をしている。
いや、イオン。
そこまで私は節操なしではないから。
多少では収まらないかなー、くらいにはお転婆の自覚はあるけれど。
ルシアはイオンには後で言い聞かせなければと思ったのだった。




