457.記憶の領域
「...やっぱり、あちら側の住人がこちらに出てくるのを気長に待つしかないみたいね」
「ああ、一応、店主には連絡を入れてもらうように頼んだが...」
ざわざわ、と様々な音が混在して賑やかしい中、大声か近くに居る者しか声が届かず、掻き消されるのを良いことにルシアはため息を吐きながら、ぼやくようにそう呟いた。
案の定、その呟きは隣に居る王子が拾えたくらいで周囲には広がらずに掻き消えた。
尤も、周囲を行き交う人たちに聞こえていたところで所詮は他人の会話、多少は興味を惹かれたとしてもその場限りのものですぐに忘れてしまうだろうけども。
まぁ、用心に用心を重ねるのは最早、職業病みたいなものなので。
最早、無意識に何処であってもそれに即した行動を取るようになったルシアの呟きを拾った王子もまた、同じくらいの声量で返答を返した。
この間、二人して視線は前に歩く歩調も変わらず、口元を見ていなければ会話しているのも分からないという手の込みようであった。
これもそれも全部、立場故の弊害だ...!とルシアが自身を客観的に見て、気付いたならば、心の底から叫んでいたことだろう。
ルシアたちは行きにも通ったメインロードを宿へ向かって、今度は反対へ向けて歩いていた。
時間が経ったメインロードは昼時に近いからか、一層、人出があるようだった。
人混みを少し縫うように、然れど、はぐれたり、すれ違いざまに肩が触れ合うほどではない、そんな状態の道をすいすいと慣れたようにルシアたちは進んでいたのだった。
ーーーーー
物は試し、と足を踏み入れた惑わしの小路。
途中で地図は使い物にならなくなり、それ以降も何処かへ出られることもなく、十二分にその名称が事実であることを身を持って実感したルシアたちはあの迷い続けた時間は何だったのか、というほどそれはそれはあっさりとメインロードへと戻ってこれた。
進もうとすれば迷う、しかし引き返すことは簡単、その言葉もまた、事実であったようだ。
原理は一つとして分からないけれど。
魔法は前世の知識も役に立たず、本当に専門外なのである。
だから、そういうものだ、と割り切るようにしている。
そうして、拍子抜けなほど簡単にメインロードへと戻ってきたルシアたちは再チャレンジはせずに鍛冶屋に赴くのは日を改めることにして、まずは小路の入口のすぐ傍にあるオズバルドが訪ねた装飾品店にルシアたちは足を向けた。
案内人になり得る人物を紹介してもらう為である。
装飾品店の店主は事情を説明すれば、快く引き受けてくれた。
とはいえ、あちら側の住人が出て来なれば紹介しようもないということで後日、あちらの人間がこちらへと出てき次第、伝えてくれる、ということになった。
そうして、ルシアたちは宿の場所を店主に伝え、本日は惑わしの小路の中でも言ったように宿へと戻ることにしたのであった。
「......」
宿への帰還の道中、ルシアは思考の海へ完全に意識を飛ばしていた。
それは今後の予定であるし、作中でのことだ。
疎かになる周囲への注意は王子や護衛たちに丸投げである。
イオンがじとっとした目をしていたものの、放置して考え事に集中していれば、ため息の後にルシアの前に立って歩くことで人とぶつからないように配慮してくれたのだった。
取り敢えず、案内人に関しての手は打った。
どのくらいかかるかは分からないけれど今、出来ることはやったと言える。
――私以外は。
いや、それは厳密には正しくないか。
今、打てる手は打ったという意味ではルシアも同じであった。
ただ、案内人について、自分だけは当てがない訳ではないのである。
そう、作中で出てきた鍛冶師見習いであるという人物。
ルシアだけが案内人に最も適役であるその人物を知っていた。
「んー」
「ルシア?」
「ああ、ごめんなさい。ちょっと考え事が纏まらなくて。だから、何でもないの。気にしないで」
ルシアは唸った。
隣を歩いていた王子が怪訝そうにルシアを見下ろして、尋ねてくるが、ルシアは首を横に振った。
それもこれも煮詰まっていたからだった。
――そう、ルシアは作中で出てきたその鍛冶師見習いのことを覚えていなかったのだ。
件の鍛冶師である老爺の見習いにしては王子と同じくらいの年頃の青年であったことは覚えていた。
しかし、その青年がどのような見た目をしていて、どんな名前の人物であったか、ルシアはごっそりと思い出せなかったのだ。
元々、ルシアは前世からそれなりに記憶力は良い方ではあった。
そして、あの小説の内容については私物であったこともあり、何より生まれ変わってここが類似している世界だと知って、身体がある程度、自由に動かせるようになった時に書き残す等、対策を講じてきたことでかなり鮮明且つ詳細に熟知していた。
けれども、それなりに、なのである。
さすがに一字一句を覚えていられるほどの驚異的な記憶力はルシアに備わってはいなかった。
結果として、実はあの小説の本当に細部と言われる部分においてはルシアにとって領域外の代物、と言わざるを得なかったのである。
そして、今回のその鍛冶師見習いの青年。
作中では王子たちを案内した後は鍛冶師の老爺の後ろで会話に交じるくらいだった所謂、端役であったその青年は見事にその領域外の範疇に納まっていた。
だから、ルシアはその青年の存在すら惑わしの小路の話を聞いてから小説のシナリオを思い返すまで覚えていなかったのだ。
...あー、駄目だ。
ルシアはがっくりと項垂れるように顔を俯かせて、息を大きく吐き出した。
見習いの青年は人当たりの良い人物であった気はする。
けれど、挿絵にもなっていなかった青年の髪色も瞳の色も容姿の雰囲気、身長...何も出てこない。
思い出せたなら、もっとスムーズに事が進むと思うんだけど...。
何だか、喉まで来ているのに引っ掛かったままで出てこないような、そんな何とも据わりの悪い気分だった。
ルシアはもう一度、今度は誰にも聞かれないように小さく唸る。
結局、宿に帰りつくまで思い出そうと考え続けたルシアはついぞ、思い出すことが出来ずに頭を悩ませたまま、一日を終えるのであった。
まぁ、いくらルシアと言えど、完璧ではないよね、ということで。
そりゃ、作中の大きな出来事は覚えているだろうけど、端々の一文や二文程度のことを正確に覚えてはいないと思うの。




