42.二度目の稀
「あら、カリスト様?随分、お早いお戻りですわね」
「ああ」
ゆっくりと入浴を満喫して部屋へ戻ると、通常であればまだ執務室に居るはずの王子が居間のソファに腰掛けていた。
まぁ、手には何かの書類とペンが握られているけども。
「貴女たち、ありがとう。もう下がって良いわよ」
「ですが...」
「あら、後は髪を梳くだけでしょう?その程度ならばわたくしだけでも出来るわ」
何なら入浴だって簡単な着替えだって出来るわ!
さすがにイオンに手伝わせる訳にはいかなかったし、かといって前世でも今世でもそれを手伝われるような生活を送って来なかったし。
「...承知致しました。では、ルシア様こちらを」
「ええ、ありがとう」
ルシアは侍女の一人から櫛一式を手渡され、受け取った。
わぁ、こんなに櫛って種類があるのか。
こっちの液体は椿油のようなものだろうか。
ルシアは侍女たちが退出したのを見届けて振り返る。
そして、王子の隣に近付いて腰掛けた。
「今日は何かあったの?珍しいこともあるものね」
「たまには良いだろう。ルシアは?今日は王妃主催の茶会へ参加していたようだが......ああ、良い言わなくて。その君の表情で理解した」
純粋な疑問を彼へ目線と共に向けると明言を避けられたまま、聞き返された。
しかし答えを聞くまでもなく、王子は納得の声を上げる。
...そんなに私は嫌な顔してました?
「王宮が魔窟たる所以は貴族夫人たちによる陰湿な水面下の戦いがほとんどを占めるのだと確信したわ、間違いなく」
「なんというか......よく頑張ったな」
鬱々としそうなほどに疲れた表情で何処か遠くを見つめるように言うルシアに王子はどう表現していいか分からないといったように言葉を返した。
「でもイオンも居たし、最後にはノーチェも助けに来てくれたから無事、よ」
にこやかに心配はいらないと意味も込めて笑う。
偶然かもしれないけどこうやって話し相手をしてくれているのは、私の今日の予定を知って、ほんのちょっぴりでも気にしてくれたからだと思うから。
本当に優しくて周りの人間を見捨てられない人だよね。
そのうち、他人に気を割き過ぎて過労死しなければ良いけれど。
エンドロール後、イストリアを救った賢君が過労で早世なんてどんな喜劇でもないだろう。
ルシアのその言葉に込められた意味に気付いてか、王子は顔を逸らして立ち上がる。
あ、言い過ぎたかな?
いや、実際に口には出していないんだけどそれ以外で語り過ぎただろうか...?
もしかして部屋も出ていくかと王子の背中を視線で追うと彼は廊下に続く扉には向かわず、部屋の隅にあるお馴染みのミニキッチンの前で立ち止まり、戸棚を漁り始めた。
「カリスト?」
「良いから」
腰を浮かせかけたルシアを王子は片手で制した。
そして、とても慣れた無駄のない動きでお湯を沸かし始める。
「元々、俺が自分で淹れる為に用意したものだ。それなのに使えないでどうする」
その手際の良さに呆気に取られていたルシアに横目を向けて王子は言った。
確かに言う通りだ。
深夜に人を呼ぶことが躊躇われるという理由で出来たキッチンなら王子が使いこなして当然のこと。
それでも王宮内でその宮の主であり、そういった雑事と無縁そうな美貌ともあってなんだかとても不思議な光景である。
まぁ、何だってやれば出来る人だし、身分こそあれ、その境遇は憐憫が過ぎる。
そんな風に見つめている間に王子はカップを一つだけ持ってソファへと戻ってくる。
何も言うでもなく座ったまま、自分の隣に王子が腰を掛け直すのを見届けたルシアはその一つしか用意されなかったカップをぐい、と押し出されて目を瞬かせた。
「ほら」
「ありがとう...?」
なんだ、今日は本格的に珍しい行動ばかりだ。
いつもならば王子のペースをルシアが乱しているのに、今は逆にルシアがペースを崩されている。
受け取ったからには、と口を付けようと思い、ルシアは未だ手に持っていた櫛一式をテーブルに置こうとしたが、それは横から伸びてきた手によって遮られる。
ルシアは遮った手の主の顔を覗き込んだ。
「なあに、カリスト」
「......貸せ」
え、貸せって櫛を...?
もしかしなくとも王子が梳かすとかいう...?
渡して良いものかと悩むが一向に王子が退く様子を見せないのでルシアはこの際どうにでもなれ、と観念して櫛を手渡した。
「ねぇ、ほんとに梳かすつもり?」
「そもそもこれは入浴後すぐにやるんだろう。粗雑な扱いはしない、良いからそれでも飲んでゆっくりしていろ」
言うだけ言って反論の余地もくれないまま、王子はソファの後ろへ回り、半身で振り返っていたルシアを前を向けさせて櫛を髪に通し始める。
言葉通りとても丁寧に梳かしてくれているようで髪を引かれる感覚もほとんど感じられない。
「あら、カモミールティーなのね。確かに寛ぐのには一番の選択肢よね」
「そうか」
なんだかこの状況はむず痒い。
しかし、今日あったことも全て吹き飛ぶほどの驚きと平穏にルシアはたまになら悪くないとゆったりとした息を吐いたのだった。
ーーーーー
「ありがとう、カリスト。髪を梳かすのも、カモミールティーもどっちもね」
王子による梳りの作業が終わり、カモミールティーも飲み干したルシアは片付けまでしてしまう王子に礼を述べた。
それに対して王子は何も返さずにテーブル上のカップにまで手を伸ばそうとしたので、ルシアはひょいっと持ち上げて回避させる。
「駄目よ、カップくらいは私が片付けるわ」
淹れてもらったのなら、後片付けくらいは返さないと。
いや、王子ってあれだよね。
大抵のことは出来るし苦にならないから自分から動くタイプだよね。
「ルシア」
「なあに?」
カップ一つくらい、さっと洗い終えたルシアに王子が手渡してきたのは一通の手紙だ。
なんだろう。
はっ、もしやまた面倒事!?
戦々恐々としながら中を取り出して文字に目を通す。
ルシアは送り主も含めて驚き、困惑した顔を王子に向けた。
「これって...」
「ああ、三日後に行われるレジェス主催のお茶会の招待状だ。今日のように王妃の派閥ばかりの集まりではないが、君が呼ばれたのは十中八九、王妃の企みによるものだろう」
ですよねー。
レジェス王子ならわざわざお茶会やパーティー等で交流する必要はないし、あの子ならルシアを気遣ってこんなもの送ってこないだろう。
王妃の介入があったのは明白。
「立て続けになるが...」
「...レジェス殿下も見ればイバンも参加のようだし、今日よりは幾分、気が楽よ」
それでも行く気満々とはいかないけど。
よくもこう、次から次へ転がり込んでくるものである。
ルシアははぁあ、と大きくため息を溢したのだった。




