436.一人の皇子と一人の、
「――失礼致します、追加の書類をお持ちしました。」
「ああ、御苦労。そうだな、次はこっちを手伝ってくれ。」
「承知しました。」
「......シャー、これはどういうこと?」
笑うシャーハンシャーに目を見開いて固まる多数。
どう見ても、混沌でしかない室内に、それを引き起こした新たな入室者の青年は動揺一つ見せることなく、ルシアたちに一礼をした後、つかつかと奥の机へと近付き、まだ笑い声を溢すシャーハンシャーへと慇懃な口調で手にしていた種類を差し出した。
シャーハンシャーはやや収まりかけたものの、顔には悪戯が成功した後のようなとても得意げな笑みを貼り付けて受け取り、自身と背格好のよく似た青年へと指示を出す。
青年がそれに頷き、シャーハンシャーから幾つかの書類を受け取り、部屋にある机のうちの一つに向かい始めたところで、ルシアはやっと思考をゆるりと起動をかけて、立ち直った。
ルシアは静かに、そして明らかに低く、眇めた双眸を咎めるようにシャーハンシャーへと向けて、そう問いかけた。
横で王子がルシアの声に肩を揺らす。
王子もやっと起動がかかったらしい。
「...何がだ?」
「何がも何も!彼は...!!」
「ルシアよ。」
言外の誤魔化すな、という副音声はしっかりとシャーハンシャーにも届いたらしく、下手な噓が飛び出すでもなく、シャーハンシャーは惚けたように首を傾けながら、挑発するように目を弧に描きながら、笑んだ。
質問返しだ、噓こそ言っていないが誤魔化していないとは微妙に言いづらいくらいの。
けれども、完全にあしらう時のそれではなく、それこそ挑戦するように、ほどほどに余地が残された言葉。
きっと、これ以上の混乱を呼ばないように努めて冷静な態度を繕っていたのだろうルシアはそれを忘れたように焦りの伴った声で明確な言葉で再度、シャーハンシャーに問おうとした。
この場のルシアたち側に立つ誰もが同様に思っただろう問い。
しかし、それはシャーハンシャーのたった一言、ルシアの名を呼ぶ声だけで遮られた。
然程、大きかった訳でも覇気のあった訳でもないその声はそれでも室内をしん、と静寂に落とした。
謁見の間の茶番中やその前後で見せたシャーハンシャーの方がずっと威厳のある姿であった。
ああ、彼は非情になれる、たった一言、たった一つの指の振りで人命を捨てることも出来る人物だと再認識させられた。
けれども、ルシアにはあの時以上に目の前のシャーハンシャーに対して、二の句が継げられなかった。
恐ろしさはない、平常とそう変わらぬシャーハンシャーがそこに居るだけだ。
だのに、ルシアの口は次の言葉を音に変換しない。
はく、と息だけが零れた。
それを見ていたシャーハンシャーは先程までのように口角を持ち上げることもなく、けれども威厳を纏うこともなく、事もなげに、興味がなさそうにでもなく。
然れど、それは真剣とも言い難く。
何とも形容し難い、だが嘘偽りは一切ないだろうと信じられる紅を瞳に宿らせて、真っ直ぐにこちらを見据えて、再びその形の良い唇を開き――。
「俺は不変の獅子タクリードの第一皇子。名はシャーハンシャー、シャーハンシャー・アムシャド・ヘイダル・タクリターヘル。やがて、この国の皇帝としてこの地を統べる者。この広大で砂の大地の王となる者。」
「......。」
急に始まったシャーハンシャーの口上。
しかし、誰もそれを邪魔をせずに聞き入れ、息をも潜めた。
シャーハンシャーが語るはただの事実、けれども決意表明のようだ、とルシアは漠然と思う。
「共に同じ母の腹から生まれ落ちた愚弟はもう居ない。それが答えだ。」
静かに、物語の最後の一文を読み上げ終えたかのように朗々と響いていた声は余韻を残して、断言だけを残して消えた。
ルシアは真意を探るようにまじまじとシャーハンシャーを見つめた。
シャーハンシャーはそれに対して、何も言わない。
ましてや、態度を変えることもない。
きっぱりとしたその言葉。
シャーハンシャーはそれが答えだと言う。
ルシアの視界の端には動じないシャーハンシャーとは別に潜入作戦の際は勿論のこと、この国に来て立ち寄った街中で見てきた彼の姿が映っているというのに。
ああ、そうだ。
見紛うほどにそっくりだった。
色やその生地の質こそ違うが、その顔を覆う布面も。
王子とは違う、太陽光を受けてきらきらと輝く黄金の髪も。
皇宮という場所に相応しくある程度には上質であるものの、飾り気のない質素な服も。
ぴん、と伸びた美しいほどの真っ直ぐな背筋も、全て。
ルシアは先程の言葉を最後に何の言葉も反応も示さなくなったシャーハンシャーの頑なさを見止めて、今度はもう一人の青年へと目を向ける。
しかし、そんなルシアの中々に鬼気迫っているのではないだろうか、咎めるような視線を受けても青年はただ表情の見えない顔で一言も発することなく、会釈を返しただけだった。
何処までも畏まった態度。
まるで本人がそこに居るのかというほどそっくりなのに、初めてみたその挙動、仕草。
いや、本当ならそこまで徹底しとけよ、と横で見ていて何度か思ったのだけれども。
一瞬、余計なことを頭に浮かべながらも半ば信じられないという顔をするルシアの目前で机に向かって皇子らしく書類仕事を熟すシャーハンシャーの姿と共に、そこには皇子という立場を隠していた時のシャーハンシャーが居たのだった。
ごめんなさい、短いです。




