420.少し前に遡って
※今回はカリストの視点になります。
「......。」
一閃、煌めく銀を横に薙いだと同時に目前で立ち塞がっていたものが頽れる。
周囲にも同じように幾つも同様のものが山のように転がっていた。
カリストは視界に入る範囲に見知った顔以外で武器を抜き払った者が居ないのを確認してから、手にしていた剣を軽く振った。
その動作で飛ぶはずの赤は地面に飛ばない。
それはそこらに転がっている者たちもだった。
見る限り、全くというのは無理な話だが、それでも今まで見てきた中では格段に視界に映る赤はずっと少なかった。
それはカリストたちがそういう戦法で戦っていたからである。
剣の腹で相手を殴打武器で殴るように斬り伏せ、時には鳩尾、首に拳や手刀を一発。
やむを得ずに交戦の最中、敵対者を斬った場面も何度かあったが、それも致命傷は避けられた大量出血による死の危険性もないもの。
それらは全て、そういう約束をシャーハンシャーと交わしたからだ。
皇宮の内と外、何度か情報をやり取りする中で今日の決行と合わせて、カリストたちが皇宮に訪れるだろうということはアリ・アミールも予測を立てていたようで、カリストたちはそれを逆に利用させてもらったのだ。
それはアリ・アミール陣営の者を取り逃さない為、一網打尽にする為。
敢えてわざと今日、カリストたちが皇宮へ訪れるという情報をあちらが確信を持てるような形にして流したのである。
こうして、必然的に引き起こされた交戦。
現にこちらもそうし向けただけあって、秘密裏に近隣住民には前以て避難指示を出しており、実際にあちらが仕掛けてきたところでもう欺く必要はないとばかりに迅速且つ戦闘すら見せないほどの鮮やかさで他所へと移動してもらっているので、この皇宮前の場所には一般人の姿は一つとして、ない。
極力、死人を出さずに捕縛して引き渡す。
それがシャーハンシャーとカリストの間に交わされた約束で取引であり、そうしてカリストは一般人を排除することで周囲を気にせずに本気を出せるという出来得る限り、シャーハンシャーの意に沿えるような立ち回り易い環境を作り上げた。
何故、そんな条件を呑んだのか。
それはそもそも、所詮は部外者でしかないカリストたちが今回の件に関われるのはシャーハンシャーがそれを承諾したからである。
あくまでも協力者でしかない、一国の王子であるカリストにはその何処までも理屈的で感情の挟まない明確な線引きを十二分に心得ていた。
だから、シャーハンシャーが求めるように次から次へと出てくる数多の敵対者を味方は勿論のこと、敵側にも最小限の被害に留める戦法を取ったのだ。
「...それに。」
カリストはつい音になってしまったかのように溢す。
見える範囲の敵対者は一掃してしまったとはいえ、まだ残っているかどうかも確認していない中、周囲は自分の側近たちも含めて、ハサンの部下という者たちが倒れ伏した者たちを拘束しており、騒々しい。
だから、カリストの落とした音を聞いたものは居なかった。
けれども、途中で言葉を途切れさせ、目を伏せたのはただ偏に。
脳裏に一瞬、青白い顔で昏睡する少女の姿が過ったからだ。
真っ赤なそれを見て、倒れた彼女がカリストの意思に関係なく、呼び起こされたからだ。
彼女なら――ルシアならきっと、アクィラでのことがなくとも、地が赤に染まるのを厭うだろうから。
やむを得ないものだったとしても、最小限でも、頭では仕方がないと割り切ることを知っていても、他の誰にも気付かれなくとも、ルシアはそれらを想っては哀しい表情を浮かべるだろうとカリストには容易に想像出来た。
面と向かって言っても絶対に認めない彼女はとても優しい心根を持つ少女である。
そして、他人でさえも傷付くのをほっておけないお人好しである。
何度となく、それらを見ようとしなければ、目を瞑ってしまえば、彼女の心の痛みはずっと少なくなるだろうに、とカリストを始めとした周囲の者たちが思っていることを当の彼女は知らないだろう。
いっそのこと、見せないようにその瞳を塞いでやろうかと、不都合ばかりの外に出さずに囲い込んでしまおうかと、そんな一度間違えれば危うい思想を持っていることをルシアは知らないだろう。
けれども、カリストたちはあの灰の瞳に、時に鏡のようにこちらの心をも写し取ったかのように見透かすような色を見せるあの眼差しに、前を向いて決して折れぬ意志を高温の炎に変えて揺らすあの双眸に、それを言い、実行することを躊躇わされるのである。
あの惹き込まれるような瞳をただの灰に変えるなんてことは誰も出来ないのだ。
ましてや、それに魅せられてしまった者は。
彼女が鳥籠の中では生きられない鳥であることを知っているが故に。
カリストもその例にも洩れず、故に歯痒い。
「――ルシア。」
カリストは今度は周囲に聞こえていないことを意識した上でそう溢した。
向ける視線の先は目前に優雅に聳えるタクリードの皇宮である。
外から見る分にはまさか、今から大きなざわめきが起こるようには見られない。
けれど、もうそうなるのはこの作戦が始動したことで決定事項だった。
果たして、それは嵐の前の静けさか。
今、彼処にはルシアが居る。
カリストは10日前にシャーハンシャーと共に皇宮へと向かった彼女の姿を思い出した。
いつもは綺麗に全ての髪を結い上げては纏め上げ、服の何処かにイストリアの王族の色である紺色を身に着けている彼女。
落ち着いた雰囲気のルシアにはよく似合う髪型で色だ。
何より紺色は王族の色であり、カリストの色でもあった。
しかし、カリストが最後に見たルシアは未婚の適齢期の少女のように下ろした髪で赤を基調とした衣装に身を包んでいた。
タクリードの、シャーハンシャーの色。
心無しか、表情まで幼く、年相応に見える。
勿論、ルシアが言い出した作戦の為の恰好である。
だが、カリストには面白く思わなかったのは事実だった。
「......もう消えているだろうか。」
カリストは衝動的ではあったが、自分の意思でやったと言わざるを得ない彼女に残した傷痕を思い浮かべた。
前日の晩に彼女の首元へ付けた歯形である。
あの時、思い切り噛んだことを悪かったとは思っているが、後悔はしていない。
言葉もただ抱き締めることもカリストの中で渦巻いた感情をルシアに伝えるには到底、足りなかったのだ。
衝動的なこともあり、それなりの力で噛んだそれはその分、痛みを強かっただろう。
それに関しては申し訳ない気持ちになるが、やっぱりあれをやらなければ良かったとはどうしても思えなかった。
あの歯形はもう消えただろうか、いや消えただろう。
ルシアの従者であるあの完璧で軽口の叩き合いこそすれど、ルシアに確固たる忠誠を誓っているイオンが気付いていないはずがなく、そして気付いたなら軟膏を塗るなり、何らかの治療をしたはず。
そして、使われたのならグウェナエルとエグランティーヌに持たされたものであるはず。
曲がりなりにもゲリールの薬、10日もあれば歯形程度は跡形もなく消えているはずだ。
「...まさか、惜しいと思うとは。」
カリストは自嘲するように吐き捨てた。
少なくとも、後悔はしていないとはいえ、あれではルシアは服を選ぶのにも気を遣う必要があるだろうし、何よりあれは傷だ。
カリストは決して、ルシアに傷付いて欲しい訳ではないのだ。
「殿下!」
「ああ、今行く。」
呆然と思考を飛ばしながらも周囲の警戒を怠らない中で遠くからフォティアに呼ばれる。
カリストはすぐさま、思考を切り替えてそちらに駆け出したのだった。




