3.馬車の中で
兄から婚約の話を聞いて、早数日が経ち――。
ルシアは急激に増えた淑女レッスンも個人の趣味且つ他にすることがないからと一日のほとんどの時間を占める読書もその全て放り出して、王宮へと向かう馬車の中に居た。
服装までいつも以上に豪華な仕上がり。
見た目重視な為に重く嵩張っては機能性が普段のものより落ちてしまっている。
動きづらくってしょうがない。
では何故、そうまでして王宮へ出向かなければならないのか。
理由はただ一つ。
なんと今日、これから件の婚約者殿との初顔合わせなのである。
件の婚約者殿――カリスト第一王子殿下は王族特有の金髪と竜王の血の濃さを感じさせる夜空に似た深い青の瞳をした現存する王族の中でも最も直系に近い色彩を持つ王子である。
見目に関してもまさに王子様という容姿をしているが、性格は冷徹で人を近付けたがらない。
しかし、それもクールで孤高の王子様と称されており、また本来の根も優しく自然と人に力を貸してしまうので、そのギャップが周りの人に彼の力になりたいと思わせる。
彼の意見ならば素晴らしい結果になるだろうと、そう思わせる魅力がある。
所謂、人たらしの才能がずば抜けている。
孤高であれど、人が自然と彼の元に集うような人格者。
どれだけ環境に捻じ曲げられても人嫌いには成り切れない。
ルシアの知る彼とはそんな人物である。
とはいえ、それは作中に出てくる既に成長を重ねた十八歳の彼の話であって、当の王子は現在の齢は十歳。
やっと年齢が二桁になったばかりのまだまだ幼い少年であった。
ある意味では一番性格に難ある時期の年頃だった。
つまり、作中のイメージは全く掠りもしない訳ではないが、それほど役には立たない可能性が高いということ。
孤高の人格者を目されるまでに至った経緯を半分近くは経験していないのではないだろうか。
しかし、状況的には優秀な頭脳を持つだろう彼なら、既に自分が如何に複雑な立場なのかを理解してしまっているのではないだろうか。
そして、その賢い頭でそれらのあまりの理不尽さに何だか荒んでいる気がする。
苦悩を乗り越えるにはまだ経験が足りず、しかして、ただ翻弄されるには賢過ぎた。
まぁ、あくまでそれらはルシアの予想でしかないけれども。
だが、少なくとも世間一般に想像する子供像とは離れてはいるだろう。
そうでなければ異常だ、と言える環境に彼は居るのだから。
そう考えてしまえば、ルシアはほんの少し同情というものを覚えた。
しかし、そんな子供の相手なんてしたことがない。
どう接するのが正解か、なんて分からない。
...これから長い付き合いを強いられる相手に対して出る感想がそれなのは果たして、大丈夫なのだろうか。
主にメンタルとストレスという観点で、とルシアは心の中で嘆いた。
どう考えても、四苦八苦する未来しか見えない。
「お嬢、眉間に皺」
「っ!?...痛っ、たぁ!!」
今後のことを想像して皺を寄せていたルシアの眉間に端的過ぎる言葉と共に飛んできたのは強烈なデコピンだった。
ルシアは己れの額に走った痛烈な衝撃に呻く。
それはどう考えても六歳の女の子、しかも伯爵令嬢を相手に放つ強さではなかった。
ルシアは思わず、向かいで一緒に馬車に揺られる無礼な男を恨めしそうに睨め付ける。
「あー、そんな顔してちゃ周りの人に誤解されますよって...まぁ、既に手遅れな気がしますけど。ほら、仏頂面やめて。ニコニコして」
「イオン...貴方こそ、その心無い減らず口は直せって何度も言っているでしょ」
「おっと、藪蛇」
ルシアの、見た目よりは迫力があり、しかしまだ年端のいかない少女の可愛らしい睨みとも言えるそれに飄々と返す男。
あくまでも自分のペースを崩すことなく話す様子はその睨みが全く効いていないことを示しており、ルシアは若干の悔しさと共に余計な一言ばかりが本当に多い男、だと唇を引き結んだ。
そう、この男はいつもこうなのだ。
ルシアが何かを言ったとして、大体はこのように全く響いていない態度で躱される。
そして、ルシアの眉間の皺が深くなるのまでがほとんど決まった流れであった。
今現在、ルシアと共に馬車に乗るこの男の名はイオン。
オルディアレス伯爵家に勤めるルシア付きの従者である。
深い茶髪にまるで、アメトリンという紫色と黄色がグラデーションした宝石のようにキラキラと輝く珍しい瞳をしていて、その瞳に負けない程度にはそれなりに整った顔をもしている青年で性格もこうしてルシアの眉間に皺を作らせるような態度が玉に瑕ではあるが、基本的に人当たりが良く、伯爵家の女性使用人からもそこそこの人気を勝ち取っている。
いやだから、この世界の顔面偏差値どうなってんだ、とルシアが内心で悪態を吐いたのも無理からぬことだろう。
見た目は二十歳前後だが、実際のところの実年齢は全くの不明。
その理由はイオンが年齢不詳を自称する胡散臭い男という訳ではなく、彼自身も自分の年齢を含め過去の記憶を全て失っているということにあった。
まず、イオンは二年前にルシアが拾って従者にした男であった。
朦朧とした混濁する意識状態で道に座り込んでいたイオン。
その宝石のような瞳を内包する瞼は確かに開いていたはずなのに、その瞳は淀んで何も映していないようだったのをルシアは今でも鮮明に覚えている。
その時のイオンの姿は異様でありながらも周囲の景色に溶け込んでおり、本来であれば気に留めはしても、切りがないと手出しはせずに終わるはずの存在であった。
しかし、彼はルシアの目を奪ったのだ。
どうしてかなんて、後から熟考してもルシアは結論付けることが出来なかった。
ただただ、イオンの存在が。
目に飛び込んできたその姿が。
ルシアに動きを止めさせ、同時に行動を移させるほどのものであったのだ。
ただ直感のようなものが響いた。
そうとしか言えない衝動でルシアはその珍しい瞳でも何でもなく、イオンという存在を拾い上げたのである。
ルシアは諫める大人たちなど構いもしないで座り込むイオンへ近付いた。
近くで見れば、益々その宝石のような瞳とそこに浮かぶ空虚が強烈だった。
だが、それはルシアにとって忌避するものには成り得なかったのだ。
むしろ、ただこれだけで終わりにするのは、放置するのは――。
そうして、様々な理屈を放り出して、ただそうするべきだと訴えた感情に従って、この男を従者にする、とルシアはその場で宣言したのだった。
それが二人の邂逅であった。
そんな出会いを経て、イオンはオルディアレス伯爵家へと足を踏み入れた。
尤も、本当の初回のそれは気絶したままで運び込まれる形となり、彼は自身の足でそれを越えたのはもっと後のことになるのだが、それはまた別のお話。
それもこれもルシアが声をかけて、半ば強引に連れて帰ることにした矢先、イオンは緊張の糸が切れたのか、気を失った結果である。
そうして当時、ルシアのお目付け役として傍に居た者によってイオンはオルディアレス伯爵家の屋敷へと運ばれたのだ。
意識を取り戻せば使用人用とは言えども貴族の邸宅、直前まで居た路傍とは全く別世界のような場所に居るという恐怖体験が待っている中、果たしてイオンはたっぷりと丸一日を睡眠に充てた後、目を覚ました。
しかし、次に目が覚めたその時、彼はそれまでの全てを忘れてしまっていたのである。
本当に何一つ、覚えていなかった。
ただ、ルシアと会って拾われたのだということだけが記憶に残っていた。
それだけはぼんやりとだが、イオンは覚えていた。
そんなイオンを帰すに帰せない、何よりも傍に置くと決めてしまっていたルシアはそのまま強引に周囲を納得させ、記憶障害ごと受け入れた。
かなり頭を使って、周囲や家の主人たる父を説き伏せた記憶がある。
イオンの素性も然ることながら、幼い娘であるルシアがそれを願い出るということ事態がかなりの難易度であったのだ。
それでも何とか頑張って、兄にも協力してもらって、漕ぎ着けた。
存外、イオンが優秀ですぐに仕事を覚え、ルシア付きの従者としてだけではなく、様々な面で役に立つところを見せたことも今に至るまで彼がオルディアレス伯爵家に勤め続けられている理由だろう。
まぁ、そんな経緯があって、イオンはルシアが差し伸べた手を取ったあの日からオルディアレス伯爵家の使用人となったのだった。
ただ、...とルシアは思い返す中で共に引き出される一つの疑問を脳裏でまた議題に持ち出した。浮かび上がったのはたったの一言。
しかしながら、それは印象強く、ルシアの意識に留まり続ける。
ルシアが最初に声をかけたその時、イオンが呟いたその言葉。
『...見つけた』
確かにイオンはそう言った。
彼は一体、何を見つけたというのだろうか。
あの場所で何も映していなかったはずの彼が見た景色はどんなものだったのだろうか。
ルシアはイオンの瞳を覗き込むようにじっと見る。
しかし、そこには何もない。
真っ新、だとも言えた。
淀み一つすら、そこにはない。
それもそうだろう、イオンはその時の感情も自分自身も覚えていやしないのだから。
ルシアとしては言葉の真意を知りたかったのだが、今となってはそれも不明のままになるのだろうと思う。
それは惜しいような、もやもやとするような。
だけども、ルシアはイオンに思い出すことを強要するつもりはなかった。
きっと、これから何度もその疑問を一人、議題に上げることとなろうとも。
ないものはないのだ、これもまた仕方のないこと。
こういうのは往々にして、他人が口を挟むべきではないことだ。
少なくとも、ルシアはそう思っている。
「何ですか?お嬢」
「...いいえ、何でもないわ。それより、もう着くわ」
ルシアの視線に気付いたのだろうイオンが首を傾げる。
ルシアは一拍を置いてから首を横に振り、話を切り替える。
先程、馬車が一度だけ停まった。
それはきっと、門番に通してもらうように軽く手続きをしていたのだろうと思う。
それならば、もう既に王宮の敷地内へと入っているはずだとルシアは考えた。
ルシアの予測を裏付けるように目的を目前とした馬車が次第に減速し、やがて停まる。
ルシアは背筋を伸ばして、いつでも立ち上がって下車出来るように佇まいを直した。
さてと、この世界の主人公にご対面といきますか、ルシアは小さく聞こえぬようにそう言い放ったのであった。