382.優しさもどかしさと突き付ける痕
「......。」
呆然とルシアは寝床の上で座り込んだまま、天幕の隙間から差し込んでくる朝日を眺めていた。
何処かふわふわしたような、でも、じんじんと痛いような頭は起床後だというのに一向に起動してはくれなかった。
ぼんやりとしたまま、ルシアは昨夜のことを思い出す。
あの後、どうやって天幕まで戻ったのか覚えていない。
ただ、上手く歩けなくて覚束ない足取りのルシアが数歩進むよりも前に王子によって抱え上げられたことをルシアは記憶していた。
そのまま天幕まで運ばれて、思考停止したまま、寝床に横たえられた。
硬直して動こうともしない私に王子が瞼を伏せるように手を伸ばしてきて。
大きな手で撫で付けられたかと思えば、今度は瞼に柔らかい感触がして。
その時のルシアにはもう一度、瞼を持ち上げて、それが何か確認する勇気は残っていなかった。
最終的に後ろからいつものすり抜け技を持ってしてでも逃げ出せないほどしっかりと抱き込まれて、気が付けば眠りがルシアの意識を攫っていた。
今現在、天幕の中には誰も居ない。
一緒に寝たはずの王子もだ。
それが良いことなのか、悪いことなのか、ルシアにはいまいち判別出来なかった。
冷え込む空気を捉える肌感覚はまだ本来予定していた起床時刻よりも現在の時刻が早いことをルシアに訴えていた。
けれど、天幕内に王子の姿はなければ、見下ろした寝床に自分以外の温もりの欠片も残っていない。
「お嬢。」
呼ばれてルシアは再び天幕の入口の方へと視線を向ける。
そこにはこちらの様子を窺うイオンの姿があった。
「イオン...。」
「はい。おはようございます、お嬢。随分、お早いお目覚めで。」
ルシアの意識が自分に向いたことを確認したイオンはずかずかと天幕の中へ足を踏み入れて、ルシアの前にしゃがみ込んだ。
そして、ぼんやりとするルシアに構いもせず、その手へ顔を拭く為の濡らした布を押し付けて、ルシアの朝の準備をとても速い手付きで整えていったのだった。
いつもながら、速やか過ぎて瞬きの間に整ってしまうので優秀を通り越して怖いくらいである。
ルシアはそれを眺めていたが途中でイオンに早く顔拭いて、起きてください、と言われて、まるで言われたことをこなすだけのロボットのように忠実にこなしながら、立ち上がった。
「はい、お嬢。今日はこの服にしましょう。ほら、さっさと着替えて。」
「......ねぇ、いつもより雑な扱いだと思うのは私の気のせいかしら?」
ぽんぽんと投げ渡すように服を押し付けられて、せっつかれたことでさすがに起動し始めた脳をゆるりと動かして、ルシアはイオンに半眼を叩き付けた。
しかし、当のイオンは気にも止めずに再度、せっついてきたのでルシアは深いため息を吐いて、着替え始めたのであった。
ーーーーー
「これならまぁ、良い感じに遠方から遥々やって来た令嬢っぽくなったんじゃないですかね?旅装だけど、貴族令嬢としてのお洒落を優先した結果、やや機能性の劣る感じがする辺り、それらしいと思うんですけど。」
「......取り敢えず、具体的且つ的確な用意をありがとう。」
ルシアは己れの前に腰を落として、途中、着崩れ等を直しながらチェックを行っているイオンに諦念が篭り、今にもため息が出てきそうな声で返答していた。
ルシアの調子は最初からこんな様子であった。
だが、イオンは気にもしない様子でルシアの服を整えながら、いつも通りに軽やかに話題を繰り広げてはルシアに会話を投げかけてきたのだった。
片や軽快に、片やややどんよりとした何とも奇妙な会話がここに成り立っていた。
「はい。じゃあ、次は髪ですね。」
「...ええ、お願いね。」
今度は背後に回って、銀色の髪に櫛を通し始めたイオンにルシアは首は動かさずに首肯した。
もうほとんど億劫な気分なまま、ルシアはイオンのされるがままにしていた。
そうであってもルシアの支度はとてもスピーディーに進んでいく。
それもこれもイオンの手腕である。
ふと、ルシアは見えないと理解しつつも背後のイオンに向かって、目だけを動かして視線を向けた。
当然、視界にイオンは映らない。
イオンは着替え終えたルシアの合図を聞いてもう一度、天幕に入ってきた後、そのまま流れるようにルシアの支度の世話を焼き始めた。
いつもより過剰で丁寧で細かい作業と裏腹にその口振りだけはいつもよりルシアを雑に扱うようなものだったが、イオンは基本的にいつも通りにルシアの世話を焼いた。
そう、いつも通り。
いつも通りに。
何も変わったことはなかったように。
起床したばかりの姿のまま呆然としていたルシアに顔を拭くように布を手渡した時も、服装のチェックで隈なく目を滑らせた時も、襟の詰まっていない夜着から覗く首の歯形も、旅装の袖の釦を止める為に触れた手首に散る鬱血痕も、彼の視界にくっきりと映っていただろうに。
それでもイオンは至っていつも通りであった。
一度もそれについて触れてはこなかった。
この間にも次から次へと話題を投げかけてくるというのにそれに関してだけは。
首に至ってはイオンのその手で軟膏を塗り、包帯まで巻いたというのに何も言わない。
そもそもイオンの用意した服装はタクリードの貴族令嬢らしさやその慎ましやかさを演出する目的もあっただろうが、見事に首や手首の隠れる露出の少ないデザインのものだった。
これで気付いていないというには無理が過ぎる。
つまりはこれは気遣いだとルシアはすぐに勘付いた。
ルシアは敏感なほどにイオンがこれに触れやしないかと神経を尖らせている自分に辟易しながらも、いっそのこと聞いてくれ、聞かないでくれ、ともどかしく感じながらも、結局はその据わりの悪い心地のする気遣いを甘受したのだった。
「...そうですね。旅装と言えど、髪を全て結い上げるのは止めておきましょうか。」
「もう任せるわ。」
少し悩む素振りで言ったイオンに投げやりにルシアは返す。
イオンはその後も僅かに考えた後、ルシアの髪の上部だけを編み込んだり複雑で華やかに結い上げていったのであった。
「よし、これで良いですよ。さて、少し早いですが朝食にしますか。他の皆も殿下ももう起きて、外に居ますよ。」
「!...そうね、そうするわ。」
全ての過程が終わって、くるりと最終確認というようにその場で回ってみせたルシアを見て、イオンは告げた。
着替えに時間がかかったこともあるが、他の皆が自分より起床が遅いという光景はどうにも思い浮かばなかったから、もう既に起きて活動していることは何ら可笑しいことではなかった。
けれど、ルシアの肩は可哀想なくらいに跳ねた。
言わずもがな、理由は一つである。
とはいえ、いつまでも天幕に引き籠っている訳にはいかないことをルシアは理解していた。
少々、ぎこちなさを見せながらもルシアは天幕の入口へと向かう。
ルシアの支度の為に出した道具を素早く片付けたイオンもその後に続く。
「...ねぇ、イオン。」
「?はい、何ですか。お嬢。」
しかし、ルシアが天幕の布に手をかけて状態で立ち止まったことでイオンは足を止めた。
ルシアは首を僅かに傾けたイオンに振り返って、その名を呼ぶ。
イオンは素直に返答した。
「私、いつものように笑えてる?」
次の瞬間、ルシアの口から飛び出してきたのはそんな言葉だった。
その顔に浮かぶのはいつもより強張ったような、無機質なそんな笑みだった。
「――いつも通りの顔ですよ。」
しかし、イオンはそう答えたのだった。
そう、とだけ言って、ルシアは天幕を潜る。
今度こそ、朝日の差す砂の上に足を踏み出したルシアにイオンは続いたのだった。
申し訳ございません(土下座)
予告した時間よりも、またいつもの投稿時間よりも遅い時間の投稿になったことを平身低頭してお詫び申し上げます。
今後はないように努めますのでどうか、今後も応援してくださると幸いです。
宜しくお願い致します。
ちゃうねん、不慮の事故やったんや...。
もしかして:執筆中にデータが半分以上飛んだ。
もしかしなくとも:執筆中にデータが半分以上飛んだ。
それが全てです...(泣)




