380.その瞳に宿るのは
「っ、......。」
ルシアは息を詰めた。
目前に己れの頭上に広がる光景とよく似た紺青が、よく見慣れているはずの夜空があった。
しかし、そこに宿る色をルシアは知らない。
ああ、知らない。
こんなのは知らない。
何処か言い聞かせるように頭の中をこだまする。
ルシアは思考全てが真っ白に飛んでしまったかのように身体を硬直させた。
それはまるで目前の一対の紺青に魅入られたようであったが、そう客観視出来るほどの思考回路はルシアには残っていなかった。
自ら思考することを放棄したのではなく、放棄させられたという言葉が正しいような光景だった。
酷く静かだった。
耳に痛いほどの静寂だった。
しかし、その静けさにも気付かないほどに目の前の紺青はいつも以上に、雄弁に語っていた。
揺らめく炎の形をはっきりと見せ付けていた。
真っ白になったままのルシアはそれをただただ見つめ返すことしか出来なかった。
一体、何が王子にこんな目をさせるようなスイッチだったというのだろう。
ルシアには分からない。
抱き締められた時点で王子の様子がいつもと違うことは気付いていたし、それを宥めるような仕草だってした。
しかし、肩口に埋められたその顔が、その瞳が、こんな表情と色をしているとは露とも思っていなかったのだ。
けれど、ルシアは気付いてしまう。
その燻る炎が己れが浮かべるものとは似て非なるものだということを。
轟々と燃え盛る炎ではなく、どろどろと焼き尽くすような溶岩のような熱であることを。
聡明と称されることの多いルシアはそのほんの少しの違いを判別出来てしまった。
だからこそ、息を呑んで気圧されるままにそれを見つめ返していた。
だが、その短いようにも、長いようにも感じられた時間は、眼前にあった青い炎がより近くに迫ったことで終わる。
「!」
咄嗟にルシアは瞼を閉じた。
普段ならお互いの鼻先が触れそうな距離であれど、決してそうはしないのに、その距離感すらも馴染んでしまっていたというのに瞼を閉じたのは偏にこの状態に至るまで、その全てが通常とは何もかもが違っていたからだ。
その瞳に呑まれそうになったからだ。
だから、せめてその中てられそうな熱から逃れるようにと、反射的に閉じた。
しかし、ルシアはすぐにその選択が間違いであったことを思い知る。
「ん...っ!?」
ルシアは真っ暗な中で何かが突然、鼻先を掠めたことに驚いて声を洩らした。
この至近距離でその声が聞こえていないはずがないのにも関わらず、自分を押さえ込むその人物は動きを止めない。
彼のさらさらとした髪が肌を擽る感触にルシアはよりギュッと眉間に皺が寄るくらいに瞳を閉じた。
「いっっ...!?」
ルシアはもう堪え切れないとでも言うように悲鳴のように声を上げた。
それは何とも情けなく震えた声で、表情だってとてもじゃないが人様に見せたくはないほど眉は垂れ下がって、目には生理的な涙が縁に溜まっていた。
先程までも何度も混乱させられていたが、これはその比ではなかった。
「ね、ねぇっ、カ、カリスト......っ。」
「......。」
ルシアは混乱し切ったままに必死に自分を抱きすくめている王子の名を呼んだ。
しかし、王子は黙ったままで答えない。
けれども、ルシアが力加減など忘れて、とは言っても非力なルシアの力など鍛えた王子の身体には可愛いものではあるがバシバシと容赦なくその背中を叩けば、やっと王子が少しだけ身を引いてくれたのでルシアはまだ抱き締められているにも関わらず、詰まりそうだった息を吐いたのであった。
そして、すぐさまルシアは空いた隙間のお陰で比較的自由になった手で自分の首を押さえた。
そこは酷く熱を持っていた。
少しの間、吹き付ける冷たい風に晒されたのにも関わらず、それすらも感じさせないほどに。
どくどくとそこに心臓そのものがあっても可笑しくないくらいに手の内で熱が跳ねる。
自分の声すら掻き消せそうなほど、酷く耳が煩い。
急激に身体の熱を奪っていくような冷たい風が、自分の銀色の髪と王子の金色の髪を揺らしていく。
風に晒されて冷え切っているはずの己れの頬が熱されたように熱いのを彼女は痛いほど感じていたのだった。
否、全身が沸騰し出しそうに熱かった。
「カリストっ...!!」
今度は非難するようにルシアは首を押さえたままに、怖さから来たのではない涙を溜めた瞳のままに王子を睨め付けた。
普段から鏡のように周囲を映す灰の瞳が水を張って、より鮮やかに周りの景色を映し出していた。
のそり、そう言った方が良いほど緩慢に俯きがちで表情が窺えなかった王子の顔が持ち上がる。
今尚、頭上に満ちるそれとよく似た双眸が金糸の間から覗いて――。
それを見た瞬間、ルシアは息を止めた。
やや見開かれた瞳にぎりぎりで湛えられていた雫が一つ、白い柔肌の上を滑り落ちる。
普段より色鮮やかに周りの景色を映し出す灰の瞳には鮮明にどろりとした紺青を映していたのであった。
良いところかもしらんが、容赦なく切ります。




