367.旧路地を行く
「妃殿下、こちらです。」
「......ええ。」
言われなかったら気付かなかったような蔦のカーテンの奥に続く寂れた路地へと何ということはない顔で案内する青年の言葉にルシアはまだ警戒の抜け切らない硬い声を神妙な顔で吐き出した。
ルシアは蔦を手で避けて潜り、足早に翻る外套を追いかけた。
かれこれ、このような蔦や蔓のカーテンを潜るのは数度目である。
ルシアはもう暫くの間、寂れ切って苔生した路地の中を歩いていた。
タクリードに来て、確かに街の中はオアシスの恩恵により植物があったが、ここまで緑に覆われた場所を見たのはこれが初めてだった。
「......。」
淡々と、淡々と静かな路地を青年の後に付いてルシアは進んでいく。
響く音は二人分の足音だけが響いていた。
念の為に来た道は覚えていっているものの、あまりに複雑且つ曲がり角と先程のような一見分からない路地が多過ぎて、そろそろ自力で逃げ出すのは厳しくなってきている。
そのことについてはやや不安は残るものの、今更と潔く割り切ってルシアはずんずんと進んでいった。
そう、まだまだ警戒を解いてはいない顔をしてはいるものの、こうして彼と共に行動しているのはルシアの同意の上であった。
強制された訳ではなく。
「...ハサン、先程から通っているこの路地は?」
長く続いた沈黙に堪え兼ねてルシアは目前の背に問いかけた。
この道には人どころかルシアたち以外に生き物一匹すら、いやしない。
以前は取り繕っていた猫も今は他所へやっていた。
「......ずっと昔、その頃はまだ建築等に関する制限が曖昧で今より街中の道が複雑化し、迷路そのもののような様相をしておりました。今では大きな通りを含め、出来る限り直線上になるよう整備されていますのは妃殿下も今までの街にて拝見されたかと思いますが...。」
「ええ、そうね。...では、ここは昔の?」
青年――ハサンはちらりと視線をルシアに寄越した後、歩みを緩めぬまま、訥々と語り始めた。
それはこのタクリードの城塞都市の過去から今までの成り立ちだったり、在り方だったり。
ルシアは確かに見てきた前世の母国であった国の古都に近い碁盤目の街並みを思い浮かべて、ハサンの言に頷く。
そして、脈略のないようにも思う言葉と現状を見比べて、再び問いを返した。
「はい。通りから通りへと抜ける道の一つでした。昔の複雑な通路のほとんどは老朽化もありますが単純に迷子防止として、基本的に観光客の増加に添って潰されてきました。しかし、ここのように幾つかは工事が難しく手に負えなかったり、街の外れにあるが故に元より忘れ去られていたりと様々な要因で今でも残っております。中には意図的に残された路地も存在しますが。」
知る人ぞ知る、抜け道のようなもので私たちは旧路地と呼んでいます、とルシアの問いにあっさりと答えたハサンは最後にそう締め括った。
追っ手も旧路地の存在こそ知ってはいてもその構造までは知らないだろう、もし自分たちが旧路地に入ったことが知られても下手に入ると迷宮よりも脱出不可である為にこの旧路地の中までは追ってこないだろうとも、ハサンは説明を続けた。
そう...、とルシアは曖昧な心境で相槌を打ってからふと、一つのことに気付く。
ルシアがはっと少々俯き気味だった顔を上げた気配を感じ取ったのだろう。
再度、問いかけようとルシアがそれを口に出す前にハサンは一言だけ、私はこの街の出身です、と発したのだった。
ルシアは目を瞬かせる。
「こういった小路の歩き方は代々、そこに住む者たちの間で伝わっていくものです。そして、得てして好奇心旺盛な子供はこんな小路を見付けては探索したがるもの。」
「...貴方もそうだったの?」
「...ええ、まぁ。」
今の無機質さすら思わせるハサンの子供時代が想像出来ずに尋ねれば、歯切れ悪くではあるが肯定が返ってきた。
その歯切れの悪さは思い出したくない過去でも思い出したのだろうか。
意外と昔はやんちゃだったりしたのだろうか。
「あら?貴方がアフマルの出身なら......。」
ルシアはまたも何かに気付いたようにそう溢した。
すると、ハサンもまたその反応の理由に気付いたかのようにああ、と口を開いた。
「瞳の色のことでしたら、必ずしもその地に住む者が皆、その地名と同じ色ではないとだけ。私の場合は母方の血筋にウルジュワーンの者がおります。母も父も赤系統の瞳をしておりますので隔世遺伝になりますね。」
「そうなのね。」
きらりと僅かに落ちていた木漏れ日を受けて、神秘的にハサンの紫眼の瞳が輝いた。
確かに地名と同じ色が多く、愛されていると聞いただけで、実際に見た街を行き交う人も全てそうだった訳ではないのをルシアは思い出す。
けれど、ハサンがこのアフマル・アル・タセェの街出身とは。
瞳の色からてっきりウルジュワーンか、城仕えを考えれば皇都のあるアブヤドの出身かと勝手に思っていたので少なからず驚いた。
何よりこのアフマルの土地柄とも言える現地の住民たちの気風を思えば、より一層。
既に訪れたアフマルの二つの街でその気風が大袈裟でないことを知っているが故に、よりだ。先程の好奇心旺盛な子供時代が想像出来ないように血気盛んなハサンもルシアには想像するのに難しかった。
けれど、それが真実だというようにハサンは分かりづらいこの路地を易々と迷いなく進んでいく。
「...妃殿下、次はあちらに。それを抜ければ、宿屋のすぐ傍に出れます。」
「分かったわ。」
形にならない想像に意識を向けていたルシアはハサンの声を聞いて、意識を目前に戻す。
ハサンの指した先は蔦も蔓もなかったが今、歩いてきた道に対して斜めに入口が作られており、遠目からではまじまじと見なければ奥の壁と同化してしまって、やはり言われなければ突然現れた道に驚いていたことだろうと容易に想像出来る類いのものであった。
ルシアは素直に返事して、その路地へと入っていく。
そう、ルシアがハサンの案内を受けて向かっていたのは自分たちの泊まる宿屋だったのだ。
通りの一つでルシアを追ってきた敵を倒したハサンと対峙したあの後。
ルシアの警戒滲み出る問いかけにハサンはこれといった弁明はしなかった。
ただ、敵意はないのだということを告げ、行動で示し、最後にルシアを宿屋まで無事に送り届けるとだけ彼は言った。
本来であれば、怪しさしかないその発言。
ルシアは罠かとも考えたが、その間も微動だにせず、果てには身に付けている武器を手渡そうとしてきたハサンにルシアが折れたのだった。
それには徹底したハサンの危害は加えないという意思表示と態度、そして何より彼の瞳は感情を見せることはないものの、何かを企んでいるようには見えず、真っ直ぐだったことも要因の一つである。
そうして、ルシアは罠であった時のことも考慮した上で彼の提案を受けることにしたのだった。
少なくとも、こんな絶好のチャンスに彼は何もしてこない。
あとはあんな風に彼を撒いて逃げ出しておいて言うことではないと思うが、ルシアの中でハサンを完全に敵だと決め付けられていないこともあると思う。
旧路地を進む。
やがて、次第に騒がしく感じるほどの賑わいが耳朶を打ち始めた。
前方から日の眩しいほどの明かりが差し込んできている。
ルシアは前を行くハサンを盾代わりにしながら、それでも日影に居た為により目を眩ませにくる太陽光に目を眇めつつ、旧路地の終わりを踏み出したのであった。
拝読いただき、ありがとうございました。
昨日は急な休載、申し訳ありませんでした。
所用は無事に終わりましたよ、物凄く疲れましたけど。
快適な休日を過ごされた方もいらっしゃるかと思いますが、皆様も一日、お疲れ様でした。
私の作品が良い娯楽になっていれば幸いです。




