343.人影、二つと
窓から外、見えた人影が一つ。
ルシアはそれの後を付けるように努めて静かに部屋を出て、宿を出て、人影の出て言った方向へと闇夜に沈む街中の通りの上で足を進めていた。
外套を纏っていてもその下が夜着であることも一因かもしれない、少しの音を立てて吹き、自身を追い越していく風はひやりとルシアの頬を冷やした。
「前にも思ったけれど、本当に砂漠の夜は一層冷えるわね。」
ルシアは外套の中で自分の腕を擦りながら出来るだけ壁際を歩いていた。
それは風を少しでも避ける為、先に居るであろう人影を含めた誰かに気付かれにくくするようにする為だ。
薄闇色に落ちた砂色の壁伝いに歩く。
壁の向こうには誰かが居るのは間違いないのに通りには人一人として居らず、寂寥とした空気が満ちていた。
まるで誰も居ない街だ。
寂れて廃された街という訳ではなく、突然、人だけが居なくなったような。
「......思ったより暗いわね。転ばないように気を付けないと。」
ルシアは真っ直ぐに揺らぎない足取りながらも身動きした。
闇夜はルシアでさえも少しの恐れを覚えさせた。
それも今夜は新月なのだ。
暗闇は人に安らぎの眠りを与え、また恐ろしさも与える。
それでも、ルシアはここまで来てただ引き返すつもりは毛頭なかった。
ルシアは角を曲がった訳でもないのに宿屋の姿が昼間であっても目視出来ないであろうくらいにはもう通りを歩いてきていた。
今から戻ったら王子にバレないかもしれないけれど、わざわざリスクを冒して出てきた分、何か利を得て帰りたい。
...早まったかな?
ルシアは少しだけ衝動的に部屋を出てきたことを後悔した。
まぁ、だからといって同じ光景を見て飛び出さないという選択肢は絶対に取らないだろうけど。
「...?」
少し気が逸れてしまったまま、歩いていたところでルシアは前方に人の気配を感じて、そっと小さな路地に身体を滑り込ませた。
相手がその手のプロであればほとんど意味を成さないだろうが、ルシアは息を潜めて壁に身体を預けるようにして動きを止めた。
そして、そっと前方へと少しだけ片方の目が半分も出ない程度に乗り出して視線を向けた。
暗順応し切った目でも視界に映るものを認識するのには時間がかかった。
それでもじっと、じっくりと目を凝らす。
通りの先、いつの間にか街を囲む一際高い壁の根元まで来ていたらしい。
大通りなのに突然遮るように現れた大きな袋小路にルシアは自分が追っていたであろうそれを見た。
だが、それだけではない。
そこに居た人影は一つではなかったからだ。
二つ、立つ影があった。
まぁ、それはそうだろう。
こういう場合は大抵、秘密裏に誰かと会う為だ。
何か誰かに聞かれたくない話や取引をする為だ。
「......。」
ルシアと同じように外套を纏った人影が二人。
背格好から二人とも成人男性だろうと窺える。
どちらも如何にも、といった様相でフードを目深に被っていた。
けれど手前側、こちらに背を向けている人影の外套は色形からして紛れもなく、部屋から見下ろしたそれだとルシアは確信していた。
「!」
ふと風が駆ける。
その風はルシアの外套をそして男たちの外套をはためかせ、音を立てた。
その際、手前側の男のフードが攫われて背に落ちる。
男は周りに目前の男以外に人が居ないからか、緩慢は動きでしかし、すぐにフードを戻した。
けれど、ルシアにはしっかりと見えていた。
その男がフードを被り直そうとして僅かに背けた横顔が。
薄闇色に沈んでいたとしてもルシアはその男の瞳が理知的な光を宿し、且つ紫色をしているであろうことを、その肌が褐色をしていることを知っていた。
ハサンだ。
ハサンだった。
最初に部屋から見下ろした時、遠ざかっていく人影が自分の居る宿から出ていったようだったのをルシアはちゃんと気付いていた。
ルシアは少なからず予感を持って、部屋を飛び出してきたのだ。
我関せずで放置しておくには気にかかる人物であるとルシアは根拠こそなくも感じ取っていたのだった。
それに気付いた時、ルシアは自分の意思とは別に喉からひゅっという音が飛び出そうとしているのにも気付いたが、自力で止めるには喉も押さえる手も間に合いそうになかった。
ルシアは内心で盛大に焦る。
ここで息遣い以上の音を立ててしまえば気付かれる。
なまじ、高い鈴の音のような己れの声を隠し通すにはさすがに周囲が静か過ぎた。
身体は追いつかないものの、思考回路だけはしっかりと回っていた。
その時である。
「っ...!?」
ルシアは背後から急に現れた手によって口を塞がれたのであった。
俄にパニックになりかける脳を無理やり立て直す。
ここで暴れてしまえば、前方の男たちに気付かれ、そして反抗の意思があると知られてしまう。
それは、状況をより不利させるとルシアは分かっていた。
大人しくした方がその後の行動の制限が甘くなり、動きやすいと。
それでも、急に後ろから掴まれて、羽交い絞めにされて恐怖を覚えない女性が居るだろうか。
ルシアは身を固くさせた。
「......落ち着け、ルシア。俺だ。」
しかし次の瞬間、耳元で囁かれた言葉にルシアは身体中の力を抜いた。
それは安堵と溶けた緊張感によるものだった。
それはルシアのよく知る聞き慣れた声だった。
「手を離すが、叫ぶなよ。」
ルシアが弛緩したからだろうか、背後の声がそう続けたのを聞いて、ルシアは頷いた。
口を塞いでいた手がゆっくりと離れていく。
ルシアは背後を振り返った。
先程まで何をしてもぐっすりと起きなかったはずの王子がそこに居たのであった。




