317.Break Time
散策を終えて、ルシアは宿屋の部屋でゆっくりとソファに沈み込んでいた。
街歩きは楽しかったものの、朝から歩き回っていたから俄かに疲労を感じていた。
情報収集の収穫に関してはいまいち。
皇都の話は聞けたが、どれも在り来たりなもので変調を来たしているのかどうか、分からなかったのである。
それが本当にアリ・アミール皇子が上手くシャーハンシャーに成り済ましているのか、ただただ事件が何も起こっていないのかも。
もしかしたら、アフダルの地には話が届いていないだけかもしれないのだ。
あー、考えることは山積みだ。
シャーハンシャーのこともそうだけど、色々と。
よくよく思えば、ルシアはアクィラから帰還して以降、ずっと考え事や調べ物にばかり追われていた。
まぁ、それ自体はいつも通り、それこそ全てが終わらなければルシアのそれは終わりを迎えない。
ただ、今回のそれはほとんど休みなく、加えて端から別に考えることが増えていくものだからルシアの脳もさすがに休息を欲していた。
それらが重なってルシアはソファの上でだらんと身体の力を抜いていたのである。
そうしているうちに私はうとうとと眠気につられて、眠りについていたようだと気付いたのはいつの間にか閉じていた瞼を押し上げた時。
そしてふわぁ、と欠伸を吐き出して背伸びをしようとしたその時である。
身動ぐ自分の身体に何か違和感があったのは。
ルシアは目を擦りながら自分自身を見下ろして、それでもまだ状況が掴めずに数度に渡って目を瞬かせた。
そして、緩やかに事態を理解してその灰色の瞳を半眼にさせた。
「...カリスト。」
「ああ、おはようルシア。」
ルシアは肩越しに少しだけ顎を逸らして、すぐ目前にある絶世の美形を見上げた。
すると、ルシアの呆れ交じりの声に王子はなんてことはないという表情で片手にしていた本に視線を落としたまま、目覚めの挨拶を寄越してきたのだった。
「ええ、おはよう...じゃなくて。これは一体どういうこと。」
「何も可笑しいことはないだろう。」
「......。」
もう一度、ルシアが非難めいた視線を送るも王子は器用に片手で本を捲り、読書を続けるだけだった。
ルシアはふう、とため息を吐き出す。
現在、ルシアは眠りについた時と同じ、宿屋の部屋のソファの上に居た。
ただし、座っているのはソファではなく、王子の膝の上だった。
正確にはソファに斜め向きに凭れ、肘掛けに片方の肘を突いて読書をする王子の膝の上で、ルシアは王子の肩口に頭を乗せた状態なのであった。
勿論、ルシアが寝るより前にそんな態勢であった覚えはないし、そもそも部屋には王子は居なかったのだ。
ところがどうだろう、この現状は。
何故か目覚めると王子を背凭れに寝ているこの状況。
説明を求もうにも部屋に居るのは王子のみで、十中八九この状況を作り上げたであろうその張本人は全くもって語る気なしだ。
ルシアは取り敢えず、王子の肩口に乗せたままの頭を起こして上半身を起こそうとした。
しかし、ルシアは自分の腹部の周りを精悍さを感じさせる引き締まった腕が一周しており、がっしりと掴まれていることに気付いて、すぐに断念して身体の力を抜いた。
肘を突いて本を持っていない方の王子の腕であるのは明白だった。
ぽすっとルシアの頭が王子の肩口に沈む。
完全に逆戻りである。
「カリスト、離して。」
「却下。君は疲れて寝てたんだろう。離せば、また休まずに何かをし始めるから駄目だ。」
早々に非力な自分では脱出は不可と判断したルシアは率直に腕の持ち主に離すように告げたのだが、それは意図も簡単にばっさりと両断されてしまった。
確かに離してもらえたら、そのまま王子の膝の上から降りて今日集めた噂とタクリード編のことをまとめる作業に入ったことだろう。
「......分かった。ここからは動かないからこれは外して。邪魔。」
妥協しよう、とでも言いたげにルシアが告げれば、王子は一向の後にゆっくりと腕の力を抜いてルシアの腹部周りを一周していた腕を外した。
そのタイミングを見計らってルシアはばっと上半身を起こし、立ち上がる。
そして、背伸びをした。
「ルシア。」
「なあに?もう充分寝たわ。これ以上寝ると夜に寝れなくなってしまうもの。ああ、心配しなくともちゃんと休憩します。読書する為の本を取りに行くくらい良いでしょ?それに喉が渇いちゃった。」
背伸びを終えたルシアは連日の旅のこともあり、身体が凝り固まっているのを実感しながら、呼ばれた低めの声に後ろを振り向いた。
そこには先程と同じ態勢でこちらを見る王子が居る。
ただ、読んでいた本は閉じられ、王子の視線はルシアの挙動一つを見逃さないほどにすっと細められていた。
それは獣か、武人の瞳か。
夜空の紺青が見透かすようにこちらを見据える。
しかし、ルシアはそれにわざとらしく口角を吊り上げて笑って返した。
幾つかの理由を並び立てて、からかうように王子へ自分の取った行動の意味を説明する。
まぁ、読書は脳を休めることにはならないかもしれないが、読書は休憩する形の一つであるのも確かだよね?
やがて、そんなルシアの様子に王子は息を吐いた。
一瞬にして、部屋の空気が柔らかいものに入れ替わったかのようにそんな錯覚を覚える。
「......分かった。ただし、それ以外のことをしようとしたら捕まえて今度こそ離さないからな。」
...うーん、本当にしそうで怖いところよ。
砂漠という過酷環境だからなのか、何故だか知らないけれどアフダル・アル・サーニの街に着いた日の辺りから王子の過保護のレベルが一段階ほど上がっている気がする。
勿論、ルシアはタイミングを見計らって王子の上から抜け出したものの、それは調べ物に戻る為ではない。
というか、それをやったら確実にすぐさま引き摺り戻されることぐらいはさすがにルシアも知るところなのだ。
今まででよーく分かってるから。
うん、いけると思ってた頃は若かったよね。
そんな風にルシアは過去の自分へと思いを馳せてはいたが、そういうルシアも王子の休憩となれば絶対に仕事へ戻らせなかったのでお互い様である。
ルシアはそのまま室内を移動して、荷物の中から本を取り出した。
次に水差しとコップを持って、元の位置へと戻ってソファ前に置かれたテーブルへとそれらを置いた。
ちゃんと取ってきたのは調べ物には関係ない純粋な読書の為の本と水である。
別の物は今もじっと見ている王子に容赦なく撤去されるのは承知なので端から持ってこなかった。
「ほら、言ったものしか持ってきてないわよ。」
「ああ、そうだな......。」
ルシアの示すように放った言葉に、ルシアが抜け目ないことも知っている王子はしっかりとテーブルに広げられたものを確認した後で頷いた。
その様子を見たルシアは己れの普段の行いの結果とはいえ、その徹底ぶりに苦笑を浮かべてながら王子の隣へと腰を下ろそうとした。
「え、ちょっ。」
その瞬間である。
すっととても自然な手付き且つ有無を言わせずに横から伸びてきた腕に掬い上げられたのは。
気付けば、また王子の膝の上であった。
さっきと全く同じ態勢、逆戻り再び。
ルシアはばっと見上げる。
「ここからは動かないと言ったのは君だ。そうだな、ルシア?」
見上げた先にはとっても良い笑顔があった。
ルシアはぐぅ、と喉を鳴らす。
完全に言質を取られている以上、こちらの不利どころの話ではなかった。
しかも相手が王子とくれば、何を言っても打ち返されるだけ。
いやいや、確かに言ったけど!
それにこれだと水を注ぎづらければ、読書もしづらい。
しかし、そんなルシアの思考回路もお見通しとばかりに王子はその態勢のまま器用に水差しからコップに水を注いでルシアの口元へと運び、本に関しては先程まで読んでいた自分の本は放り出して、ルシアの持ってきた本を片手で開き始めてしまう。
しまいには空いている手でしっかりと手を絡めて取られてはルシアに成すすべはない。
全てに先手を打たれてしまった。
「......。」
結局、ため息吐くのすら疲れたとばかりにルシアは諦めを瞳に浮かべて、脱力して王子に凭れ掛かり、本を捲る指示を出し始めたのだった。
本日も遅くなりまして。
そういや、アフダル・アル・サーニの街では何があったっけ...?(すっ呆け)




