297.ベッドの上で(後編)
あの日、ルシアは今までで一番赤い色を見ただろう。
先程、普通にイオンが従者として動いていたことから分かる通り、ルシアの護衛たちもその他、海賊たちも騎士たちももう既に治療は終わっている。
けれど、ルシアの脳裏に焼き付くには充分で。
ルシアは静かな部屋の中で、今度は王子のさらさらとした髪を梳くように撫でる。
そうしながらも、ルシアは気を失う前のことを反芻していた。
何かを取り出したアドヴィスに一気に距離を詰めていく王子と仲間たち。
その中でルシアはミンジェが|地面へ転がした弓矢を手に取って、放った。
昔、同じことをした際に弓術を習うことはしなかった、というか、却下されたけど、その時よりも随分と体格が成人女性のそれに近付いているからだろうか、前世で弓を扱った時と同年代になったこともあってか、筋力不足は否めなかったものの、矢はしっかりと飛んだ。
そうして、矢はアドヴィスの足に着弾し、王子がアドヴィスの手にあったものを打ち払った。
ルシアはもう一度、王子の腕を見下ろす。
当然ながら、怪我の痕跡はない。
最後の爆発に乗じて退却したアドヴィス。
ねっとりとした視線と最後に放った言葉は今でも悪寒を走らせるほどには鮮明に覚えている。
『――それでは、また会いましょう。次はもっとじっくりと甚振る時間がある時に。』
あれは自分に向けられた言葉だと誰に言われずともルシアは分かっていた。
それは、まるで呪詛のようにルシアの思考の端でちらつく。
とても、厄介で面倒で関わり合いたくもないものに足を掴まれたような...。
悪魔、戦争屋、あの気味の悪い男が浮かぶ。
「...はぁぁぁ、ちょっとヤバいのを引いた気がするぅぅ。」
ルシアは本当に頭を抱える勢いで呻いた。
何がヤバいって、あの男が小説に登場する悪役ではないということだ。
要するに、何を仕掛けてくるか、予想が出来ないということ。
本来であれば、それが普通だが、これほど恐ろしいことがあろうか。
今回は、アクィラ戦争という事実情報があり、且つヘアンという存在からある程度の予想が出来たが、次はそうもいかないということ。
何よりも小説では王子があの男の興味を引くこともあっただろうが、こうも恨みのような感情を向けられたとも思えないからだ。
だって、接触があれば、あのレベルの悪党が登場しない訳がないのだから。
つまり、小説内でもしあの男が存在し、もし戦争に関わっていたとして、王子とはほぼ実際の接触はないと思われる。
ということは、今後の展開であの男の影を感じることはあっても直接対決はなく終わるはずで。
「...これで、もう何もしてこない、なんてことはない、よね。」
ああ、言ってたし。
何より、あの目は本気だ。
あぁぁぁー、やっばいのに目を付けられた。
「......ルシア?」
「あっ、ごめんなさい。起こしちゃった...?」
ただでさえ、面倒事という名のストーリーにおけるフラグが目白押しだというのに、と呻き続けていると、隣で寝ていた王子は身動いて、その瞼を押し開いた。
少しピントの合ってない紺青の瞳を見て、ルシアは少し慌てて謝罪を口にした。
ルシアとしては、怪我もそうだが、このワーカホリックがこうも長時間休んでくれるならこんなに有り難いことはないのである。
そのくらいにはルシアにとって王子の睡眠は優先的なものだ。
だから、起こしたことはかなり罪悪感が凄い。
「...いや、もう昼も近いだろう。起きる。」
「とは言っても、貴方も外出どころか、寝台から降りる許可が下りていないけれど。」
部屋に落ちる光の具合から大体の時間を割り出した王子はルシアと同じように半身を起こしながら言ったのを、ルシアは目を眇めてそう言葉を返した。
勝手に抜け出したら、まず間違いなく、にっこりと笑って凄んだフォティア辺りがすぐさま駆け付けてきて、その笑顔のまま説教に突入だ。
そして、何故かその際にはルシアも巻き添えを喰うことだろう。
だから、ルシアは大人しくしておけ、という意味を込めて、王子に手元にあった書類を押し付けたのであった。
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「――そうか。なら、その調印には俺も行こう。」
「...どうせ、駄目って言っても聞かないでしょ、分かったわ。エディ様やフォティたちの説得は自分で頑張ってちょうだいね。」
「ああ。」
書類を捲りながら、ルシアからエドゥアルドの話を聞いていた王子は最後の頁に目を通した後に顔を上げて言った。
ルシアは呆れたような顔をしながらもそれを承諾した。
ほんとに頑固者、という心の声は全てブーメランである。
「...さすがに疲れたわ。」
「結局、きちんと避暑休暇と言えたのはたった数日くらいか...?」
そだね。
元よりそのつもりだったとはいえ、見事に名目だった避暑休暇は王子が到着してからポルタ・ポルトへ出向くまでのたった数日間だけだった。
そして、今現在もこれでは休暇というか、静養だし。
外出許可が下りる頃にはもう、帰り支度を始めなければならないだろうか。
「......ああ、そういえば約束を果たしていないな。」
「?約束...?何のこと?」
現実をはっきり見据えればどっと疲れが、とルシアがボフッとクッションに埋もれる勢いで凭れ掛かれば、隣で何かを思い出した様子で王子が言った。
ルシアは少しだけ高い位置にある王子の綺麗な顔をきょとんとした顔で見上げた。
王子の視線がルシアへと落ちてくる。
そうして、その形の良い唇から放たれたのは。
「再会したら、抱っこしろと強請ったのは君だろう?」
「あ。」
あぁ!!そんなことも言ったな!?
もっと違う言い方ではあったが、要約すると意味は同じだ。
ルシアは目を丸くして、ポカンとした表情を浮かべた。
いや、でも今言う?
まぁ、確かに再会すぐにはまだ緊迫状態でそんな余裕はなかったし、終結した後はルシアは気絶して、王子は重症の怪我を負っていた。
そして、その後はルシアは暫く眠り続け、起きた後も何度か、起きていたらしい王子とは微妙に被らなかったから今が余裕ある直近かもしれないが。
というか、普通に受け入れていたけど、なんで、怪我人だというのに、二人で一緒のベッドに寝ているのだろうか。
私が起きた時には既に隣で王子が寝ていたんだけど。
「や、でも、カリスト。貴方、まだ本調子ではないでしょ。」
「君を抱えるくらいは支障ない。」
反射のように身を起こしてルシアは手を顔の前で振った。
しかし、何故か王子はルシアの否定も聞かずにぐいと顔を寄せてくる。
「いや、貴方、なんで私がそう言ったか、理由まで分かってたわよね!?良いわよ、もう。」
「だが、約束だ。」
「きゃっ!?」
首を横に振ってルシアは必要性のなさを説いたが、王子は至極真面目な顔をして言い切った。
そして、今度はルシアが反論する間もなく、ルシアを掬い上げて立ち上がってしまった。
急に視界が高くなってルシアは悲鳴を上げながら、王子の首に抱きつく。
「ほら、大丈夫だろう。」
バランスが取れたところで耳元に擽るような笑い声と共に低く響いたその声にルシアは振り向いた。
すぐ真横、鼻先が当たりそうなくらい間近に相好を崩して微笑む王子の顔がある。
「ちょっと!約束がどうと言うよりただ、カリストがしたかっただけでしょ!?」
「ああ、そうだ。」
「そこは堂々と言うことじゃないわよ!」
笑む王子にルシアは怒鳴れば、王子は即答した。
ルシアはもう一度、叫ぶ。
耳元で叫ばれて、その高い声にキン、キンと耳が痛いだろうに王子の笑みは増すばかり。
結局、このやり取りは何処で聞きつけたやら、速攻でやって来たフォティアの説教が始まり、またベッドに逆戻りさせられるまで続いたのである。
まだ、ちょっと続きますね。
いつの間にか、王子の笑みはプライスレス...(ただし、ルシアの前だけに限る)
なんて




