271.前に進むだけ
第五皇子。
その言葉にルシアは僅かに目を瞬かせた。
いや、ジョンウとのやり取りからヘアンの皇族、皇子だとは理解していた。
だが、ヘアンの第五皇子。
ルシアがその言葉を聞くのはこれが初めてではない。
「......第五。そう、貴方がチホの主なのね。」
「......そうだよ。」
目線で許しを出して、ルシアは思ったままの言葉をするりと吐き出した。
ルシアの視線にミンジェは立ち上がりながら苦笑を洩らして首肯した。
その顔は困ったような哀しいような感情が綯交ぜになった顔だった。
「...そう、ルシアが会ったその男は僕の従者だ。」
元、とも、だった、とも言わずに未だに眉を下げた顔をしながらもミンジェははっきりと断言した。
ルシアはそれに明確な意思を感じ取って、口を引き結んだ。
「貴方はチホを止めに来た?それとも連れ戻しに?」
「両方だよ。僕はあの馬鹿に一発殴り飛ばす為にアクィラに来たんだ。...勿論、従軍せよという国の指示もあったけど、先遣隊の船に乗ったのはチホの為。」
ルシアの問いに少々、物騒な言葉でミンジェは答えてくれた。
まぁ、お陰でこっちが死にかけたけどね、とミンジェは続けて笑う。
いや、聞いてる側からすれば笑い事じゃないからね、それ。
「今、チホは...。」
「うん、分かってるよ。ポルタ・ポルトで暴走してるんでしょ?どうやら、悪魔と契約しちゃったみたいだし...ほんとに何やってんだと思うけど。」
ルシアは岸辺にちらりと視線を向けて、言い淀んだ。
チホは今、陸側に居る。
もしかしたら、別行動しているかもしれないが、陣営は十中八九、あの悪魔のところのように思う。
いくらか前から少し変わっていた口調がより幼くなって聞こえた。
でも、こちらが元々のミンジェの口調なのだろう。
その情報はルシアが聞かせたこともあってか、頷いたミンジェは呆れたような表情で笑う。
仕方のない奴、でも見捨てられない。
そんな表情。
「だけど、僕はあいつに会わなきゃならない。殴り飛ばす為にも目を覚まさせる為にもね。」
ルシアにはミンジェとチホの間にある絆とも言えるその繋がりがどれほどのものなのか、分からない。
けれど、表情から言葉から際限なく零れ落ちる感情の数々は相当なものだとは察せられた。
ルシアにとって、ミンジェはいまいち底の読めなかった人。
だけど、柔和な笑みや穏やかな雰囲気は心地好く、ヘアンの皇子だと知った今でもそれを理由に敵対しようとは思わない人間。
チホは敵。
エドゥアルドの命を狙って、超危険人物と行動を共にする者。
そして、ミンジェと同じく考えが何も読めない人。
アドヴィスが語ったことも影響があるだろうが、ルシアにとってチホの動機が彼以外の誰かだとはどうしても信じ切れなかった。
けれど、チホを語るミンジェの顔はチホの印象を、ルシアの見た感情の色のない男ではなく、とても忠義に厚い、そんな男なのだろうと思わされた。
それだけの絆があるのだと。
ルシアは考える。
もしも、私がミンジェの立場でイオンたちが私の為に決して正しくない暴走を起こしたなら。
私だったら。
「......私なら、一発では済まさないわね。」
「うわ、それ俺たちで考えましたね?お嬢、何発殴るつもりで?」
「あら、そんな手が痛くなることをするとでも?」
ぽつり、と口について出たルシアの言葉にいち早く反応したのは一番付き合いが長いイオンだった。
先程までルシアとミンジェのやり取りを横で静かに聞いていたのに、ルシアの思い浮かべたそのもしもをイオンも想像したのか、わざとらしく嫌そうな表情を浮かべてこちらを見下ろしてきた。
ルシアはついつい目を眇めて、言い返す。
どうやったって自分より硬い奴らを殴ったら私の方がダメージ喰らうじゃん。
やるなら、相応の別のことである。
何も殴るのは物理だけの特権じゃないからね。
「はは、ルシアならほんとに何かしらの制裁を加えそうだ。イオンさんたちは覚悟しといた方が良いかもね。...けど、僕も同じ気持ち。チホの奴が馬鹿やってるんなら、悪魔と敵対したって止めに行くよ。」
ルシアとイオンのやり取りはミンジェが声に出して笑い出したことで止まった。
こちらを何処か懐かしそうに見るミンジェはからからと笑って、そう言った。
笑い過ぎたことで出た涙をざっとした仕草で無造作にミンジェは拭った。
「けど、そう思えたのはルシアのお陰だ。...先遣隊の船に乗って。一人、命拾いした。そこまで行動しておいて、僕は心の何処かでチホに会うのを恐れていたから。それこそ、大事なものを前に起こってもいないことに怯えてた。」
「......。」
ルシアはミンジェの告げたそれを黙って受け止めた。
大事なものが増えると失うことに怯えてしまう。
それは幾星霜の空の下、ルシアがミンジェに語って聞かせた話だ。
あの時、ミンジェは私に何かの答えを求めていた。
今なら何を求めていたのか、ルシアは手に取るように分かった。
他人の為に危険に自分の身を冒しに行ったチホの心理を図ろうとしていた。
それだけじゃない。
止めに行って拒絶されたら。
自分の声が届かなかったら。
怖気づく自分自身を肯定でも否定でも良い。
覚悟を決める為の言葉を欲していたように思う。
そして今、彼が私のお陰だと言うのなら、私はその正答をあげることが出来たらしい。
「...あいつが僕だけじゃない、自分の為にも動いているというのなら。僕だって、自分の為にあいつを止めに行くことにした。チホの意思なんて関係ないよ。だって、これは僕の為だから。」
呆れも哀しみも全てを消し去った真剣な表情で強くミンジェは言った。
先程の苦笑でもふいに出た笑みでもなく、晴れやかな堂々とした笑みが広がっている。
「...ただ、大事なものを守る為に進むだけ?」
「そう、僕はここに居る。それだけで傍観者では居られない。」
ルシアがあの夜の言葉を繰り返せば、ミンジェもあの夜のルシアを真似るようにそう言った。
ああ、本当に。
眩しいほどに銀の色が空気中で乱反射した光をまた弾いた。
きらきらと輝くさまはまさに意志の強さだ。
「なら、早く止めに行かなければね。」
「うん。君の旦那様に斬り捨てられる前にね。その為にも。」
ここは戦場。
それも作戦を開始してから少なくない時間が経過した。
陸側はどうなっているのだろう。
あちらには主人公が居る。
もし、チホを助けたいのなら急がなければ。
こういう時は規定外の力のある王子が少し憎らしいなぁ。
ルシアの言葉にミンジェは同意した。
今この時にも、その事態に陥る可能性が高いと笑えない冗談を口にしながら、ミンジェは斜め上を見上げた。
その視線の先で口を引き結んだジョンウがこちらを見下ろしている。
ノックスを筆頭にこちらが牽制をし続けていた為か、ミンジェが事情を話していたからか、またはジョンウがそう指示したのか、今まで静かにこちらのやり取りを待っていたヘアン陣営の者たち。
急に視線を向けられたジョンウは僅かにたじろいだ様子ながらも己れの弟の言葉を待っていた。
「まずはこちらを片付けてしまいましょう。僕がそちらへ署名をいただきに参ります。」
「...ああ、分かった。」
真剣な表情でミンジェは言い放ったのをジョンウが一拍を置いて受け入れた。
ミンジェはルシアと離れて見ていたマーレにも視線を寄越す。
マーレは何も口を挟まず、ルシアもまた頷きだけで肯定を示したのだった。
この期に及んで、ミンジェがあちらに付くことはない。
そう、ルシアは先程の話で確信した。
きっとそれはマーレも同じ。
朝日が海面に尾を引いて顔を出す。
朝だ。
夜が明けた。
接するように並んだ二つの船の小さな方で、二つの銀色が白い光を弾いてきらめいた。
この瞬間、アクィラ戦争の要の一つだった海上戦が終わりを決定付けれたのだ。
今日も一時で申し訳ありません!
ここ最近疲れからか、割と強烈な睡魔に襲われること多々(泣)
さて、どうでしたか?
ミンジェはプロット作成過程ではずっと後に誕生したキャラです。
その割には彼の進む道は割と好きです。
ミンジェはルシアの言葉に後押しされた形だけど、そうでなくても元から行動力はあったと思うので。
もしかしたら、ミンジェの自分と同じように前を向く姿にルシアの方が勇気づけれてたのかも、なんてね。
それはルシアのみが知るということで。
すみません、戦争と言いつつあっさり終わらせてしまう作者の技術不足...。
それでも、楽しんでいただけたのなら幸いです。
やっと、陸側に話が進むよ...。
作者としても、(ストーリーが)前に進む話でした。
それでは雑談はここまでにして。
また次の投稿をお楽しみに!!




