259.作戦開始を前に(後編)
「......お嬢ちゃん。」
「...あら、マーレ。随分と早いお目覚めね。」
アナタラクシを見送った後、黒い竜が消えた空を見上げていたルシアは後ろから聞こえた硬い声に振り向いた。
船内から甲板へと上がってくる階段のすぐ前に、怖いほど無表情でこちらに視線を向けてくるマーレとその隣に立つエルネストが居た。
ルシアはいつもとは雰囲気の違うマーレの様子にも気を向けずににこやかな微笑みを作って、世間話程度でしかない言葉を紡ぎ出した。
張り詰めた空気の中、それは場違いなほどよく辺りに響いた。
「......お嬢ちゃん。」
「もしかして、マーレも最終確認かしら?それとも、咄嗟の時に動けるように身体を動かしに?」
最終確認ならもうイオンとクストディオがやってくれているから大丈夫よ、とルシアはマーレに向かって言った。
「......。」
「......言いたいことがあるのなら、どうぞ?」
ルシアの明るい声にもマーレは返答を返さなかった。
それでも、ルシアは続けて言葉を落としていくが、ついには黙り込んで視線だけを強く向けてくるマーレにルシアは諦めたように眉尻を下げて、苦笑を浮かべた顔をマーレに向けた。
「...あれは、アナタラクシか?」
「あら、見ていたの?ええ、先に配置へ向かってもらったのよ。」
陽動要員のアナタラクシはルシアたちとは別行動だ。
しかも敵を挟んで反対側という作戦配置上、この船が配置場所へ向かう前にはアナタラクシも移動する必要があった。
まぁ、それがこんな早い時間になったのは飛び立つ前に広く場所を取るのと、船員に混乱を与えない為だったのだけど。
いやぁ、見張り役の人は仕方がないと割り切っていたけど、まさかマーレとエルネストが現れるとは。
いや、どのみちマーレには話がすぐに届いたことだろう。
遅かれ早かれマーレには知られていたこと。
それはルシアの予測の範疇だった。
「......正直、竜人なんてもんをこの目で拝める日が来るとは思わなかったわ。お嬢ちゃんが太鼓判を押した上での内容も陽動とはいえ、いくら何でもあんなひょろっとしたのを一人で向かわせるのは可笑しいと思うだろ?しかも当の本人は半べそを掻いてるってのにまるで無視ときた。」
「...そうね、後はここまで乗せてきたは良いけれど、どうやってアナタラクシは配置場所に向かうのか、とかかしら?」
ルシアがそう言って微笑めば、マーレはここ数日では何度か見せるようになっていた困ったような、疲れたような表情を見せた。
確かにアナタラクシは騎士であるノックスよりも細く、その見た目と見合う年頃の一般的な青年と比べれば、やや小柄だろう。
それはそれでクストディオのような技巧に長けたタイプも居るがアナタラクシの普段の仕草の中にそれは垣間見えず、下手をすれば一度、彼の戦闘を見たルシアでさえも本当に強いのかとつい、問い掛けたくなる、それがアナタラクシだった。
「...さては、最初から隠し切る気はなかったな?」
「ええ。」
絞り出すように言ったマーレに反して、ルシアはあっさりと頷いた。
まぁ、元より絶対に隠さねば、というものでもなかったしね。
「どういったものかは知らないけれど、優秀な耳を持つマーレならいつ気付いても可笑しくないと思っていたもの。だって、アナタラクシはとっても特徴的だったでしょう?ニキとは違ってね。」
海賊の船長としてか、それともエディの友人としてかは兎も角としてマーレが優秀な情報網を持っているだろうことは早くからルシアは気付いていた。
例えば、協力を仰ぐ一因となった彼らが独自に調べて記していた書類とか。
今は戦争中なこともあり、あまり機能しない部分もあるだろうが、先立ってあったスラング対アルクス・イストリアの戦いの噂は把握しているだろうと思ったのだ。
そう、竜人がイストリアに帰還したきっかけとなった戦い。
それはエクラファーンの教皇にも伝わっていたから、それなりに広まっていたはずだし。
そして、竜人族にその人外の膂力があること以外にもっと一目瞭然の身体的特徴があることはこの大陸に住まう人ならどの国の人間だって知っているだろう。
竜王と竜人族に関してはイストリアだけの歴史ではなく、大陸そのものの始まりの歴史として認識されているから。
この大陸ではどの国でも歴史を遡れば行き着くその物語。
大陸初の創国を、一人の王と縦長に裂けた瞳を持つ人外の生き物たちによる諍いを治める物語を。
誰もが一度、幼き頃に聞く寝物語。
「...は?ニキ?」
「あら、そっちは気付いていなかったの?ニキは半竜よ?」
前髪が長くその特徴的な瞳を隠してしまっているニキティウスと違って、アナタラクシはこの船に乗船した後も前もそのダイヤモンドのような瞳を惜しげもなく晒していた。
だから、ルシアとしてはもっと早くに竜人たちと自分の繋がりを気付かれるものだと思っていたのだと言うように言葉を告げたのだが、マーレはここでニキティウスの名前が出てくるとは思っていなかったのか、素っ頓狂な声を上げて固まった。
それを見て、ルシアは意外そうに首を傾げた。
ニキティウスは王子に合流する前にマーレの前でそのもう一つの特徴である膂力を見せている。
普段、見えない琥珀の瞳だって最初の登場の際に晒していた。
あの登場の仕方だって人では無理があったのに。
だから、てっきりアナタラクシの正体を知って、芋づる式にニキティウスまで考えが及ぶものだと思っていた。
どうやら、本当にマーレは先程アナタラクシが飛び立つのを見て気付いたらしい。
顔には見せないが相当、混乱しているようだ。
「...そりゃ、化けもんじみてる訳だわ。」
平然と並び立てられていく新事実にマーレは漸くそう口にした。
まぁ、竜の血が混じってたもんね。
ルシアは呆然という表現が似合う顔をしたマーレの様子に笑みを溢した。
それを少し恨めしそうにマーレが視線を向ける。
「...竜人に半竜?確かにイストリアに一部戻ってきたってのは少し前に聞いた。でも、普通の令嬢が簡単に扱えるもんじゃないはずだろ?」
確かに元より竜人族は良き隣人、共生関係というもので、普通はただ一個人の護衛なんぞに扱えるものではない。
そんなの戦力が勿体なさ過ぎるもんね。
ただ、一つの例外として彼らに指示が出来るのは。
「...なんで、こんなところで戦場に立ってんだよ。強国のお姫様がよ。」
そう、王族のみ。
それこそ、第一王子直属として竜人族の一部だけが帰還している現在においては特に、それ以外は半竜は未だしも生粋の竜人となると皆無だろう。
確信めいた目を向けられてルシアは苦笑を浮かべた。
「別に私はお姫様でも何でもないんだけれどね。ここに居るのは元は避暑に来てたのよ。それは本当。戦場に居るのは...成り行きで?」
「成り行きで済むのかよ!!」
だって、それは強ち全部嘘とも言い切れないよ。
まぁ、最初から色々と知った上で来たのは事実だけども、成り行きであることも避暑も本当だ。
ついでだったり、積極性があったりはするけども。
あれ、それって事実とも言いづらい...?
限りなく黒に近いグレーだろうか。
そうは内心で思うながらもあまりに堂々とルシアは言い放つので、マーレは諦めたように嘆息を落とした。
だからといって、そんなこと言われたって、と考えていたのはさすがにマーレにも伝わったらしい。
「姫じゃないってことは、旦那か...?」
「ええ、そうね。」
「いや、それはそれで王子が自国無関係の戦場に居るのは...。」
マーレは思い出したように王子の存在を示唆したのでルシアは頷いた。
その後、眉間に皺を寄せてマーレはぶつぶつと言っていたが、王子に関しては半分くらいは私のせいだが、残り半分は王子の元来の性分なので、私に文句を言わないで欲しい。
「...それで?別に知ったところで今更何も変わることはないでしょう?強いて、言うなら陽動が陽動では収まらず、一部隊と見做しても支障はないという嬉しい誤算?」
結局、戦場において身分なんて言ってる場合じゃないし。
得られることと言えば、竜人がついているという安心感?
まぁ、心配事は一つ消えたかもね。
「......だな。」
あまりに割り切った考え、言外に態度を改める必要もないと宣言したルシアにマーレは長く間を置いて同意を示した。
私としては海賊船長をしている元公爵子息が居るんだから、他国の戦争にも助力する王子夫妻が居ても良いと思うんだよね。
「さて、じゃあ、あと少ししたら作戦開始になるわ。余計なことはさっさと忘れて、目前の戦いに備えましょう。」
にべもない様子で一蹴したルシアにマーレは物言いたげな顔をしながらも肩を竦めて頷き、船の点検へと歩いていくのだった。
会話の終わりを見て、イオンたちが最終確認を再開する。
ルシアもまた薄暗い空を見つめながら、出来得る限りの非常事態を含めた対処法を詰めていったのであった。
それを真上から見下ろしていた銀の瞳が様々な感情を抱えて揺れていたことにも気付かずに。
今日は一時でしたー。
今話は少し納得のいっていない作者。
己れの文才の無さよ。
あんまり意味のないシーンでしたね。
次からはもう少し頑張ります。




