230.それはまるで物語の
「おら、お前ら!!シャキッとしやがれ!」
おお――!!
ただただ広い海の上で一人の声に呼応するかの如く、野太い怒号のような咆哮が響き渡るのをルシアは聞いていた。
すぐ目の前で行われているそれは未だにルシアの耳をビリビリさせる。
「......凄い迫力ね。」
「ははは、そうですよね。僕はさすがに慣れましたけど。」
真後ろでルシアの言葉を拾ったミンジェが笑い声を溢しながら言う。
ルシアは振り返って相好を崩しているミンジェを見た。
ミンジェはその手に籠のようなものを持って、どうやらそれを運んでいるようだった。
ルシアの視線が僅かに下を向いているのに気付いたミンジェはああ、と笑いを止めて口を開く。
「これは、洗濯物です。運んどけって言われたので。」
「そうなの。」
「ええ、一番下っ端は大変ですよー。それよりルシアは何故、甲板に?」
聞くより前に説明をしてくれたミンジェにルシアは短く返答した。
ミンジェは全く疲れのない様子で大変だと言った。
見た目より体力があるのか、それとも手の抜き方が上手いのか、同類の効率主義者か。
「私はいい加減、外の空気を吸わせてちょうだい、とマーレに直訴したのよ。」
そう、ここはルシアたちが与えられた部屋でも小舟の修理をしている格納庫の部屋でもなく、甲板のど真ん中だった。
燦々と眩しく熱を孕んだ日差しが直下に居るルシアたちの肌に容赦なく突き刺さっていた。
ルシアの悪怯れなく、然も当然の権利とばかりに放たれた言葉にミンジェは苦笑を浮かべた。
「あー、まぁ、もう2日かぁー。確かにずっと部屋の中じゃ気が滅入るよね。」
「ええ、だから甲板に出る許可をもらったの。」
ミンジェが気持ちを察するよ、と言うように言葉を紡いだ。
ルシアも微笑みながら、頷いてみせる。
「そっか。まぁ、ルシアたちはマーレさんのお客っていうことになってるから、変に絡んでくる奴は居ないと思うし、マーレさんも見える位置に居るからすぐ駆け付けてはくれると思うけど、ここが荒くれ者の集まる海賊船ってこと。」
ミンジェは足を踏み出しながら一度、甲板の前方辺りに見えるマーレに視線を向ける。
そして、ルシアに視線を戻す。
ミンジェが偶に見せる、顔に似合わない鋭い方の視線。
「忘れないでね。」
「...ええ、忠告ありがとう。」
「ん、早く小舟が使えるようになると良いね。」
朗らかに笑ってミンジェは甲板を去っていく。
ルシアは見えなくなるまでミンジェの背中を見送った。
言葉はただの心配だったけど、いちいち裏がありそうなんだよなー。
「ルシア。」
「ああ、ごめんなさい。」
呼ばれて、ルシアはクストディオの方に顔を向けた。
丁度、駆け抜けた風がルシアの銀の髪を揺らす。
この船に同乗して2日。
とはいえ、気を失っていたので体感は1日と数時間といったところだけども。
この期間に小舟は利用可能にはならず、不本意ながらもルシアは二の足を踏んでいた。
そもそも修理に使える素材が少ないようだった。
だからといって、陸地の調達だなんてマーレたちには本末転倒だしね。
それに、何がそうさせているかは分からないが、マーレは陸地に近付くことに酷く慎重で、明らかに一定距離以上、陸地に近付くことをしなかった。
小舟が使える状況にならなければ、ルシアも情報を渡す訳にもいかず、結果として部屋に籠り、窮屈に焦燥を抱きながら過ごした訳だが。
さすがに交渉から1日以上経って、修理人の苦心の末に小舟の完成も見えてきたので、ルシアはマーレから聞いた大体の現在地を肉眼で確認する為にこうして甲板に出てきたのだった。
...まぁ、見渡す限りの海、海、海だけどね。
「それで、お嬢?現在地を駄目元でも良いから見てみたい、気疲れしたから外の空気を吸いたい、だなんて、適当なことまで言って甲板に出てきた理由は?」
さり気無く、甲板を行き交う人たちを見ていると横に並んできたイオンがそう言い放った。
見上げれば、良い笑顔がこちらを見下ろしていた。
「...まぁ、現在地に関しては全く嘘でもないわよ。外の空気を吸いたいというのも。ただ、ちょっとマーレや海賊たちの様子を観察しておきたくて。」
ルシアは視線をまた指示を通る声で出しているマーレに向けた。
グレーの髪と鮮やかでこの青ばかりの場では目立ち過ぎるオレンジのターバンを靡かせる青年海賊船長。
この船の主。
「...また何か気になることでも?」
ノックスが首を傾げて、見当を付けようと斜め上を仰ぎながら言った。
続けて、思案するように腕を組んでいたイオンが口を開く。
「......調べましょうか?」
「...まだ良いわ。もうちょっと考えまとめてから...まぁ、何事もなく平和的に出ていければ気にする必要ないわ。」
これからも付き合いがあるのなら未だしも、交渉によって一時的に手を組んでいる状況とでも言えば良いか。
後腐れなく終わるなら、腹に一物抱えていても構わないだろう。
下手に暴いて噛みつかれても面倒だし、こちらも何もない訳でもないし。
「じゃ、今は何もしませんが。」
「ええ、その時になるとしたら、ちゃんと頼むから。」
ルシアはイオンへそう告げる。
風がまた、吹き抜けた。
髪が、ルシアの着るワンピース型の服が、重力に逆らうように揺れ踊る。
自然と前を向いたルシアの視線の先に青の空を背負う青年が映る。
粗野で大きな身のこなし、大笑いで仲間の海賊に話しかける姿。
何処を取っても、典型的な兄貴分といった様子の彼。
なのに、その目立つ動きも奇抜なターバンも、印象的な瞳ですらない。
その存在自体が何処と無く目を引く青年。
自然と人の視線を集める者。
私にはそれが何故なのか、何によるものなのかは分からない。
けれど、王子やその側近たち、エドゥアルドや他の友人王子たちと同じような。
カリスマ性とも言うべき、産まれながらちょっと特別な。
ああ、そうだ。
物語の登場人物だ。
マーレにはそんな言葉がよく似合っていた。
「...もし、これが冒険譚なら。」
「お嬢?何か、言いました?」
小さく息とも変わらぬ呟きを溢したルシアをイオンが覗き込む。
ルシアは答える気はないと首を振る。
さぁ、中へ戻ろう。
観察はもう少ししたいけど、甲板に居続ける理由もない。
何より日差しがきついから。
ルシアは船内へ戻る扉を潜る。
何を言わずとも付いてくる護衛たちに振り返ることなく、階段を下りる。
これが王子の冒険譚で、ここが舞台としてのアクィラと戦争なら、あの青年海賊船長と王子は巡り会ったんだろうか。
そして、手を組んだのだろうか。
ルシアはそんなワンシーンを思い浮かべるように明かり取りの窓を見上げて、見えるはずのない遠くの空を見たのだった。




