227.見渡す限り
『すまんが、実は今この船に積んでる小舟は修理中でな。ま、情報交換にも時間かかるし、その辺りのことも含めて、仲間に伝えてくるからもう少しこの部屋で頼むわ。』
さぁ、今から成立した交渉の対価を、という雰囲気で握手を交わしたのにも関わらず、その直後、マーレというその男はけろっとそう言って退けて、この部屋から出ていった。
いやまぁ、言っている内容は尤もらしいもので納得は出来るけども。
あの展開を繰り広げた後にああも変わり身が早いと驚きも通り越して呆気に取られる。
そのせいか、交渉成立を捥ぎ取ったのに何だか素直に勝ったという実感がない。
マーレはやっぱり、喰えない奴だ。
「...ルシア、さっきの本当か確認する?」
「...んー、良いわ。まだ。いざとなって長引かされておるようなら、そうしてちょうだい。」
クストディオが静かにルシアを見据えて言った。
クストディオの瞳にはマーレが本気で了承したか分からない、そんな言葉が描かれていた。
ルシアは軽く唸って首を横に振る。
確かに上っ面だけで了承を口にした可能性は否めない。
そんなこともさらっとやって退けそうなくらいには、マーレを油断ならない相手だとルシアも認識している。
ただ。
「...何を、という訳でもないし、それすらマーレの演技である可能性だってあるけれど、マーレがこの戦争についての情報を知りたがっているのは嘘ではないと思うの。」
「......分かった。」
自分でも首を傾げながらのルシアの言葉に、間を大きく空けてクストディオが頷いた。
それは今までの経験からルシアのこういった勘は外れがないと知っているからか。
それと自身が納得出来るかは別物というところだろうか?
しかしルシアの言葉に頷いた以上、情報交換後は気を付けるべきだ、とクストディオは先程の疑念をすっかりと切り捨てて、先の展開に対策を練り始めた。
「それより、気を失っていたから記憶が曖昧だわ。三人とも起きていたなら、記憶の擦り合わせを手伝って。」
「良いですよ。」
「はい、分かりました。」
ルシアもさくっと切り替えて、状況整理に努めようと護衛三名に声をかける。
イオンが最初に返答し、続いてノックスが首肯する。
最後にクストディオが頷いた。
マーレについては、今はお預け状態なのだから、後で良い。
いくら悩んでも、暴れても、状況は変わらないのだから今はきっぱりと割り切ることが先決である。
何せ、私たちは今、すべきことも考えることもいっぱいだ。
時間は限られているのなら、効率良く。
そう考えてのルシアの言葉に、その切り替えの早さに僅かに肩を竦ませてアイコンタクトを取り合った護衛たちは、ルシアの望むままに語り始めたのだった。
ーーーーー
護衛たちに手伝ってもらって記憶の整理を付けたルシアは一応客室代わりだ、と言われて案内された部屋に移動していた。
案内されたそこは最初の船室よりは広い。
元は船員の為の部屋なのか、両脇に二段ベッドが据え付けられている。
どうやら、空き部屋を使える程度に整えたらしい。
一室に案内したのは護衛たちが私から離れる訳がないのを汲んでくれた上での配慮だろうか。
「...ほんとに、海の上ねぇ。」
「まぁ、川ではこんな辺り一面見渡す限り水面なんてことありませんからね。...障害となる陸地がないからか、操縦者の粗雑さか分かりませんけど随分揺れるし。」
ルシアは窓の桟に肘を突いて沁々と言った。
先程の部屋とは違って、やはり小さめではあるが、この部屋には顔を出せるほどの窓があった。
イオンが同じように外を覗き込みながらルシアに返答した。
ルシアはイオンを見上げる。
イオンはおくびにも出さないが、顔色が普段より白くルシアには見えた。
ああ、そうか。
イオンが覚えている限りでは海は初めてなのだ。
そこでルシアはやっと他の二人も初めての可能性がとても高いことに気付いて振り返った。
クストディオは人生のほとんどを海の見れないイストリアで過ごし、ノックスもまた、同じく海の見れないアルクスの地に居たのだから当たり前と言えば当たり前だった。
かく言うルシアとしては私だって初めてなのだと今更のことに気が付いた。
ルシアはもう一度、外を見る。
この何もない青だけの世界を見るのは初めてじゃない。
強めの風が運ぶ陸地よりも鼻につく潮の匂いもまた。
「...まぁ、船酔いはしやすいでしょうね。小舟だとまだ揺れるわよ?」
ルシアはからかうように言ってみせた。
イオンが分からない程度に嫌な顔をしたな、と気配で感じ取ってルシアは笑いを噛み殺す。
「...大丈夫、もし船に乗ることがあっても良いようにってグウェナエルに酔い止め持たされた。」
「あら、そうなの?」
後ろからクストディオが口を開いた。
そんな話は初めて聞いたルシアは振り返って尋ね返す。
クストディオは頷き、懐の中から小瓶を取り出して見せてくれた。
「まぁ、元々海向こうの国と戦争になりそうだとルシア様が言った上でアクィラへ来たんで、そういうこともあるだろうという配慮だと思いますよ。」
「...それはそれで、どうなのよ。」
言わずとも理解して準備してくれる心遣いを感謝すべきか、どうせ無茶するだろうと思われていることに拗ねるべきか、複雑な心境である。
「ふ、冗談ですよ。十中八九、こうなっても可笑しくはないとは思っていたでしょうが、半分は平和に避暑を堪能するのに海へ行くこともあるだろうからと言っていましたんで。」
「ノックス!」
ルシアが微妙な顔をしたのが分かったのか、ノックスが静かに笑みを溢して真実を披露した。
からかわれた、とルシアは下瞼を緩く弧に描き笑うノックスを見て、気が付いた。
ルシアは盛大に拗ねた顔で咎めるようにノックスの名前を呼ぶ。
ノックスはそれすらも微笑むので、ルシアはより拗ねた。
散々言うが、自覚あるけどね!!
反論のぐうの音も出ないほど図星ですけども!
何より、ノックスの披露した真実は言うほどフォローになっちゃいない。
もう!とルシアがつーんと首を横に逸らしたタイミングで廊下から扉が叩かれる。
返事をすれば、現れたのはマーレだ。
マーレは部屋の中の空気に首を傾げながらもルシアに視線を向けた。
「なんかあったのか?」
「...いいえ、問題ありません。それで?」
「ああ、小舟が見たいんだろ?対価はちゃんと確認しとかないとな。こっちだ、付いてこい。」
率直に聞くマーレにルシアは涼しく首を振る。
そして、訪ねてきた理由を一言で問い返す。
ルシアはこの部屋へ移動する前にマーレに修理中でも良いから一度、小舟を見せてくれるように頼んでいた。
マーレもそれには納得を示し、確認してくるわ、と戻っていったのだった。
案の定、マーレはそのことを告げる。
そして、廊下を後ろ手に指差してルシアに付いてくるように促したのだった。




