205.海香る潮騒を前に
耳を済ませば、聞こえてくるのは波打つ細波の音。
鼻先を掠めるのは、微かに漂う海の香り。
近付けば、煩いほどの潮騒が。
近付けば、むせかえるような潮の匂いが。
そよ風はそれを遠く離れたこの場所まで連れてくる。
「お嬢、あまり潮風に当たり過ぎると肌を傷めますよ。」
アクィラの白亜の王宮にある迎賓館にせり出して造られたテラスにて、テーブルに頬杖を突いて、ただ海の、波の寄せては返しを眺めていたルシアは、背後からかけられた声にゆるゆると頭を持ち上げて振り返った。
そこに居るのは、イオンだ。
紫と黄色の不思議な色合いの、アメトリンの瞳が、ただでさえ、普通の令嬢よりずっと怪我が多いのに、と言っていた。
「まぁ、お嬢がなけなしの令嬢らしささえ、要らないと言うんなら、良いですけどねー?ただ、それに付き合わされているクストディオのことも考えて下さいよ。」
「ちょっと、そんなこと言ってないでしょ。...でも、そうね。クストの肌まで傷んじゃうわね。」
「僕の肌が傷んだところで...。」
「駄目よ、貴方すぐ赤くなるから。」
わざと煽るように言うイオンにむっとしながら、ルシアは反論しながらも席を立つ。
その向かいの席で実はずっと座らされていたクストディオが、変に引き合いに出されたことへ、眉を寄せながら反論を試みたが、イオンではなくルシアに跳ね飛ばされる。
そうなのだ、クストディオは割と肌が弱いから。
当然のようにクストディオはルシアの昔作った化粧水の類いを見事に押し付けられていおり、彼の自室の一部はそこらの乙女より充実していたりする。
ああ、もうちょっと早く室内に入れば良かったな。
ルシアはテラスへ続く掃き出し窓を開けていたせいで、すでに潮の匂いが染み付いてしまった室内の外とは僅かに違う生温い空気の中でそう思った。
ルシアがテラスに着いて、カップの中身を空にしてから、既に小一時間ほど経過していた。
「...カリストはまだエディ様と?」
「ああ、はい。とは言っても、エドゥアルド殿下が午後から会議だと聞いてますから、もうそろそろ切り上げだと思いますよ。」
「そう。」
ルシアは室内に居た痕跡さえ見当たらない同室者について問うた。
それに返ってきたのは予想通りの言葉である。
ほんとにワーカホリックめ、とルシアはため息を吐いた。
現在、王子とエドゥアルドが行っているのは所謂、事件の後処理である。
彼らはここ数、日によっては日がな一日、主に報告書やら経緯調査書やらに追われていた。
勿論、それはヘアンの工作員の捕り物に始まり、エドゥアルドが狙われ、彼の婚約者たるベアトリーチェが拐かされ、その主犯者『戦争屋』アドヴィス、『ヘアンの裏切り者』チホの二人率いる大量の敵兵と対峙したあの怒涛の日々全ての後処理だ。
避暑地として有名なアクィラの栄えある王都にて、私は事件を追いかけ、遅れて来た王子は書類仕事。
名目となった早めの休暇とは一体、何のことか。
呆れる話だ。
「ルシア。」
「あら、おかえりなさい。報告書は順調?」
ルシアがソファに腰を下ろしたところで扉を開けて、入室してきたのは王子だった。
普段通りの仕事し過ぎの表情で私を呼ぶ。
部屋に戻ってきてもまだ手にある紙束を見ながら、ルシアは敢えて順調か、と微笑んだ。
「...後少し詰めれば終わる。そこからはエディの仕事だ。」
「本当に?」
「ああ。」
素直に進捗を告げた王子にもう一度、ルシアは問いかける。
返ってきた声には気不味さが一つたりてないのを確認して、ルシアはどうやら本当にもう仕事はないようだと判断する。
「そう。...だからって、持ってきた貴方の書類は返さないからね。」
「ああ、それはもう分かった。仕事はしない。」
ルシアはあの広間にて聞き逃さず、誓ったことを有言実行していた。
王子の持ってきた書類の一部は手付かずのまま、ルシアの命によって鍵をかけた鞄の中だ。
鍵の在りかはフォティア。
この件に関して彼は完全にこちら側なので、鞄の鍵が開けられるのは、緊急時か帰国後のニ択。
その結果、事件の後処理という多忙の合間にも重要な仕事を終わらせてしまった王子は本当にもう仕事がない状態である。
やっと、本気で何かにつけて仕事をしている王子に休暇を取らせられると、ルシアはそれはもう、ほくそ笑んだことであった。
「...窓を開けていたのか?」
「ちょっと外で海を見ながら、お茶をしていたの。カリストも飲む?」
部屋に残る潮の匂いを嗅いで王子が問う。
ルシアは先程までテラスに居たことを告げながら立ち上がる。
そうして、ティーポットにはまだまだ残っていたカモミールティーを注いで王子にソファへ座らせる。
ルシアはカップを二つ、手にして当たり前のように王子の横へ腰を下ろした。
そして、新しい方のカップを王子に手渡す。
「ほら、もう日差しが強くなってきたでしょ。冷やしたものを作ったの。」
「ああ、確かに...。閉め切った執務室がじんわりと蒸し暑くなってたからな。...丁度良い。」
こくり、とお茶を飲んで告げた王子にルシアは苦笑う。
確かに執務室なんかは書類が飛ばされないように最低限しか窓を開けないこともあるだろう。
健康面とかでも空気の換気は重要だし、そろそろ熱中症の季節なんだけど、このワーカホリックたちのことだから書類が風にどうのというより、ただ只管に仕事をしていたに違いない。
「......アドヴィスとチホの足取りは?」
「......駄目だな、何一つ出てこない。完全に隠蔽されている。」
ふと、ルシアは笑みを引っ込めて気になっていたことを聞いた。
昨日までイオンやクストディオは王子に貸し出していたから、ルシアが調べることは出来なかったのである。
王子も僅かに緩められた表情をいつもの完璧に整った顔に変えて、答えた。
ただ、ルシアには王子が思わしくない結果に悔しげなのは伝わっていた。
アドヴィスたちの逃亡を許したのは、とても悔しいことだった。
直接、対峙し目の前で取り逃したのだから、それはもう。
あの日、二人に逃亡を許した原因である爆破物。
それは確かに記された場所に設置されていた。
そして、それを回収した頃にはもう、あの男たちは痕跡一つ残しはしなかったのである。
「...でも、この美しいアクィラの地が悲劇に包まれることがなくて良かったわ。」
「...ああ、そうだな。」
ルシアは窓の方を見る。
その先に広がるのは海まで続く活気付いた港の街だ。
ソファに座っては見えないそれが目に焼き付いているかのようにルシアは窓を眺めていた。
「...もう、何も起きないと良いんだけど。」
「...そうだな。」
口ではそう言いながら、まるでそれは必ず覆されるのだ、と言いたげにルシアは目を伏せる。
そして振り返れば、同じ顔をした王子が首肯する。
「あ。」
若干、しんみりとさきた空気に包まれた室内の中でそれを打ち消すようにルシアが声を上げた。
まるで忘れていたことを思い出したかのような表情と口に当てられた掌。
王子が訝しげに首を傾げる。
「午後からリーチェとお茶をしましょう、って言っていたの忘れていたわ。」
ルシアはカップをテーブルに置いて立ち上がる。
時計を見れば、約束の時間だ。
「カリスト、戻ってきたところで悪いけれど、私もう行くわね。」
そうして、慌ただしく護衛たちに声をかけて部屋を出ていく。
元より騒がしかった訳でもないが、一気に静まったように感じられた部屋の空気に取り残された王子がふ、と笑う。
王子は自分でテーブル上のティーポットを手にして、お茶を注いだ。
冷たいカモミールティーを喉に流し込みながら、王子は先程ルシアがしていたように青空だけの見える窓の向こうを眺めたのだった。
海のような真っ青の中に雲が泳ぐ。
じわりとした熱を、海の湿気を含んだ風が攫っていく。
眩しいほどにこちらを見下ろす太陽が、もう夏の訪れを告げていた。
ぎりぎり、0時間に合いませんでした!
申し訳ありません。
いつも拝読いただき、ありがとうございます。
これにて、予告通り?第5章は閉幕です。
実は案外、危険を前に共に行動をして来なかったルシアとカリスト。
やっぱり、その場で見ているとお互いがお互いを助けようとして衝突しちゃうっていうのがこの章では見られたのではないかと思います。
実際に目にしたら、肝が余計に冷えるというやつですね。
さて、第6章ではどんな二人を見せてくれるのでしょうか。
お付き合いくださると幸いです。
ブックマーク、評価してくださる皆様、本当にありがとうございます。
コメントも嬉しいです。
気軽に書いていただけたら喜びます、作者が。
それでは、まだまだ続くルシアとカリストの旅路を楽しんでいただけたら嬉しいです。
次話投稿をお楽しみに!!




