198.主人公と悪魔の邂逅
廊下に夜本来の静けさが落ちる。
ただ、割れた窓から吹き込む風だけが音を立てた。
ルシアは状況の急変に呆気に取られていた。
半開きになりかけた口に真ん丸に見開かれた灰の瞳。
何とも珍しい、間抜けな顔だった。
だけど、それを指摘するにはこの場の誰にも余裕がなかった。
皆、一様に同じような顔をしていた。
そう、誰も──。
「...ふっ。ルシア、凄い顔になってる。」
一人、居たわ。
窓ガラスを割って現れたその張本人が。
しかし、何とも気の抜ける笑い声と共に言われてはルシアも怒るよりも呆れが浮かんだ。
「...誰のせいよ。誰の。」
ゆるゆると動き出した思考回路にじと目をしながら、反論を勢いのない声色で試みる。
すると、彼は少しだけその美しい顔を困り顔に変えて笑う。
「すまない。ただ、珍しいものだったから...。」
「何の理由にもなっていないでしょう!ちょっといい加減、笑うのを止めてちょうだい!貴方、状況を分かってる!?」
「ああ、ああ。分かっている。」
漸く、元気な声を張り上げたルシアに彼は何度も頷いてみせるがその隙にも笑み溢れており、何とも説得力がなかった。
結果、ルシアは目を吊り上げる。
実際にはルシアの会話も含めて、盛大に気の抜ける状況が作り上げられていたのだが、ルシアの怒りのとばっちりを喰らうのは目に見えている以上、誰もそれをわざわざ口にしなかった。
「......それで、その男がアドヴィスか。」
「ええ、そうよ。」
急に真剣にアドヴィスへ視線をやった彼にルシアも即座に顔を引き締める。
いつの間にか、彼はルシアたちを庇うように、アドヴィスと正面から対峙するように立っていた。
その利き手は腰に佩いた剣に伸びている。
ルシアはわざわざ彼がアドヴィスについて知っていることを聞くことも、アドヴィスへの語る言葉に警戒が必要だと伝えることもしなかった。
どうせ、既にニキティウスによって伝わっているのだ。
「......星明かりを弾き輝くほどの金髪に宵闇の空を思わせる紺青の瞳。貴方が、イストリアの第一王子殿下ですか。」
「ああ。」
アドヴィスが態勢を整え直しながら、言葉を綴る。
彼の登場もその仕方もアドヴィスには予期せぬものだったらしい。
僅かに仮面のように揺らぎなかった表情に警戒心が宿っていたのをルシアは見た。
しかし、すぐに消えてしまったが。
そう、現れたのは王子だった。
こちらへ向かっていて、アクィラに入国したばかりのはずの。
「まさか、イストリアの第一王子殿下が窓から現れるとは。けれど、お一人とは随分と不用心ではありませんか?」
最初に広間で見たようにアドヴィスは穏やかな笑みを浮かべ、穏やかな声音で王子に話しかける。
「...本来なら、ここに居る護衛たちでもお前を捕らえることは出来るだろう。とはいえ、こちらもさすがに一人で乗り込むのは許されていないんだ。」
答えともつかない、けれども答えともなる言葉を王子は告げた。
...確かに側近たちは許しはしないだろうけども。
許されていたなら、一人で乗り込んだとも聞こえる台詞にルシアはいやいや駄目でしょ、と内心で呆れ返った。
いや、ほんとに。
強いのは知ってるけどね?
立場を考えろ、立場を。
「──ちゃんと、俺の仲間たちは来ている。」
決定的な言葉を王子が放った。
それと同時にまた空が翳った。
アドヴィスが、ベアトリーチェが、知らない者が、息を呑む。
視線が外へ集まる。
ルシアは今度は動じなかった。
何故なら、その影の正体に見当がついたから。
視線を集めた空が瞬時に明かりを取り戻す。
そして、現れた。
星だけの空を背に立つ影が一つ、二つ...。
全部で四対。
突然、出現したかに見えるその人影にアドヴィスの目が少し見開かれた。
それだけじゃない。
薄暗闇の中で四対のうち、三対の瞳が煌々とそれそのものが光を発しているかのようにきらりと輝いていたから。
それは夜目の効く竜人の血の証明。
「表からも侵入させている。さあ、どうするアドヴィス。お前の逃げ場はないが。」
「......。」
悠然と立つ王子に初めてアドヴィスが苦い顔を見せた。
状況は一気に不利だ。
元々、人数差はあったけれど、アドヴィスの余裕が僅かにでも剥がれたことで、それが現実みを帯び始めている。
さあ、どうするアドヴィス。
ルシアも気を落ち着かせてアドヴィスを見据える。
すると、アドヴィスは如何にもやれやれ、と大袈裟にため息を吐く。
まだ、余裕があるのか...。
「...ふぅ。スラングとの戦で輝かしい武功を上げている第一王子殿下に加え、イストリアの竜人まで居られては元々なかった勝ち目がありません。」
「...言葉の割に余裕そうだが?」
「いえいえ、こう見えて内心とても焦っておりますとも。」
全く思っていない表情でアドヴィスは言い放った。
ルシアはその様子に警戒を強める。
何か、隠しているのか。
敵対の視線が集中する中、それを一つも気に止めていないかの表情で受け止めているアドヴィスが口端を吊り上げた。
「実は私、ここに来る前にアクィラの街の複数箇所に爆破物を仕掛けましてね。」
「!!」
ルシアは驚きに怒りにアドヴィスを睨み付けた。
ははは、お二方ともそう怖い顔をせずとも、というアドヴィスの声が聞こえ、ルシアは王子もアドヴィスを睨み付けているのだと気付く。
「...それで?」
「ええ、ですから逃がしていただければ仕掛けた場所をお伝えしましょう、ということですよ。」
低い声が王子から放たれる。
けれども、アドヴィスはにこやかに受け答える。
彼の中で既に結論が出たとも言うように。
「それが正しい保証などないだろう。」
「いえいえ、私も命は惜しいですからね。次に再会した時に問答無用で押し斬られたくはないですから、ちゃんとお教え致しますよ。それにこれは逃走の為に仕掛けたものです。私としては爆破したところで旨みがない。」
そう言いながらも逃げられないとなれば、容赦なくこの男は起爆するのだろう。
ルシアは睨み付ける視線を強くする。
「俺たちが捕らえて吐かせることがないとでも思っているのか。」
「その場合は何がどうあっても吐きません。勿論、位置の情報はここにしかありません。それに起爆に関しては前以て指示を出していますから、私が戻らなければ、アクィラの街は悲惨な光景へと姿を変えるでしょう。」
アドヴィスは自らの頭をコンコン、と叩きながら告げる。
情報はアドヴィスの頭の中。
聞き出せなければ、悲劇は必至。
ルシアは現状においての最善手に行き着いて顔を顰めた。
噛み締めた歯がギリ、と音を立てる。
最善手は一つ。
例え、アドヴィスの言葉が虚言でも...いいや、この男のことだから本当に仕掛けている。
何より王都の店を爆破したことが説得力を増していた。
「...分かった。ただし、今この時のみだ。次はないと思え。」
同じ結論に至ったのだろう王子が忌々しげな声で吐き捨てるように言った。
窓を塞いでいた仲間たちにも場所を空けさせる。
王子も悔しいのだろう、元々アドヴィスは王子が追っていた犯罪者だ。
「聡明なご判断感謝致しますよ、イストリアの第一王子殿下。爆破物の場所を示したものは最奥の部屋にあります。では、私はこれで。......また会いましょう、ルシア妃殿下。」
会いたくないわ!
ルシアは口には出さず、叫んだ。
しかし、表情や視線で伝わったのか、アドヴィスは愉快そうに笑って、ゆったりとした足運びで窓から外へ出る。
そして、やがて木々の隙間に消えていった。
「......。」
「......。」
また、静寂が訪れた。
まさしく一杯喰わされた現状に誰もが黙るしかなかった。
...けれど、アドヴィスを退却はさせた。
ルシアは一息を吐く。
結果、完全に不完全燃焼だけれど。
...今度は絶対に捕らえてやる、とルシアはもう一度、何も見えない木々の向こうを睨み付けたのだった。




