1.婚約話
そよ風が青い空の下、テラスに座る少女の髪を弄ぶ。
少女はそれを少し煩わしそうに顔にかかる髪を払い除けながら、手元の本に視線を落としていた。
そんな中、いつもより急いだ足音が響いてきたのを聞いた少女は扉の開く音と共に顔を上げた。
テラスに姿を現したのは他でもない少女の9つ年上の兄だった。
そこでさらさらとした黒髪を揺らしながら現れたその兄の整った顔が何処か躊躇いの色を持っているのに少女は気付く。
「兄様、どうされたのですか?」
いつも穏やかな兄にしては少々粗忽過ぎるその行動と表情に少女は疑問を投げる。
彼女の兄はその容姿の良さも相まって、一年前に成人して社交の場に出てから以降、令嬢たちの注目の的の一人であった。
この家が右肩下がりに傾き始めてさえいなければ、これ以上ない優良物件として令嬢間に争いが勃発していたことだろうと思うくらいには。
...尚、今でもしてないと言い切れないけれども。
これは決して身内の欲目からくる偏見ではない。
ええ、決して。
そんな兄は普段は慌てた足音を聞かせることも、言い倦ねる表情を見せることもしない完璧な人なのだ。
時々、子供のような笑みを見せるけれど、礼儀作法は勿論、常に落ち着いた行動が取れる人。
そんなところがさらに令嬢たちの注目を集めるのだろうとも思う。
それなのに、そさえも二の次とするような兄の様子を彼女は訝しんだのである。
彼は彼女の視線を受けて、困ったように眉を下げた。
やはり、それは少女がとんと見ない兄の顔であったのだった。
促された兄は意を決した様子で緑の瞳を少女に向け、口を開く。
その口から告げられたのはたった一言ながらにたったそれだけで相当の威力を持っていた。
「ルシア、君の婚約が決まったよ」
――最愛の兄のその言葉に普通、一般の令嬢はどう反応するのだろうか。
まだ見ぬ婚約者を想像して胸をときめかせる?
それとも何処か手放しで喜んでいるとは言えない兄の様子に不安を覚える?
はてさて、少女はどのような反応を見せるのか。
しかし、残念ながら彼の妹は世間一般の令嬢とは訳が違っていた。
「...何方でしょう?」
彼女はただ、努めて冷静に兄へ問う。
この際、冷たいだの、氷のようだのと言われたって構わないという意気込みさえも携えて。
既に最近ではあまりにもにこりとしない様子からそう思われ始めて、『氷の白銀姫』だなんて渾名されているのを否定出来ないけれど。
姫、だなんて言って、全くそんなことを思っていやしない癖に、皮肉にも良いところのそんな綽名を。
しかし、こっちはこっちで死活問題であったのだ。
何より、この兄がそんなことを思うはずがないのを少女はよく知っていた。
「――落ち着いて聞いてね、ルシア。君はね、この国の第一王子のカリスト殿下の婚約者に決まったんだよ」
案の定、兄はそれに眉を顰めることはなかった。
しかし、その顔は心配そうに歪んでいる。
そうして、そんな兄から告げられた言葉に少女は目を見開いた。
子供らしい大きな瞳はそれだけで零れ落ちそうだった。
それだけ、彼女は大きくその瞳を見開いたのである。
「...ルシア?ルシア、大丈夫?」
それは決して、一応は歴史ある上流貴族の端くれではあるけれど、傾き始めていてどう見ても良い物件とも言えない家の娘である自分に来た婚約の話の相手が王族、それも王位継承権の第一位を持つ人だったからではない。
今や既に将来、有望な美貌と噂の王子が相手であったからでもない。
気にかけるように声をかけてくる兄を俯いたままの少女はただただ外に追いやって、まだまだ小さな己れの掌を見つめ下ろしていた。
そして、彼女は小さく唇を震わせる。
しかし、そこから零れる音はない。
全てはそう、少女の胸の内。
ついに、ついに来てしまった...!
今後の私の人生がかかっている男が。
私に現実を突き付ける、その人物。
私の、死亡フラグの持ち主!!
初夏を告げる風が吹く、イストリア王国のとある伯爵家の屋敷のテラスにて。
少女こと、ルシアは表情には何一つ溢さないまま、心の中では盛大に声高々と悲鳴を上げていたのであった。