157.要らない
無闇に動かず、ルシアは王妃の挙動を待った。
この状況にたった少しの動作さえ見咎められたら大変なことになりかねないと感じたからか。
もし、心境を可視化出来るとしたら、この華やかな場は一瞬で極寒の風が立ち込めることだろう。
そんなルシアを余所に王妃がとてもゆったりとした動きで何かをテーブルの中央へ置いた。
それは王妃の掌で覆えるほどのサイズであり、ルシアはそれを正確に判別出来なかったが、サイズにしては重めのことり、という音を立てたのを聞いた。
やがて真っ赤な爪先がするりと外れて置かれたそれの全貌が見えた。
しかし、それでもそれが何かルシアには判別出来なかった。
「これは......?」
ルシアは慎重にそれでもはっきりと王妃へ向けて尋ねた。
ルシアが指差す先にあるのは小瓶だ。
女性が気に入りそうな凹凸が付けられたデザインであるが、化粧水や香水を入れるには少しばかり小さい。
中では王妃が置いた際の衝撃か、色付いた液体が波打った跡が残っていた。
色は黒みが強いが紫のようである。
どうやら跡が残るほどにはとろみがある液体のようだ。
......色もサイズもこのとろみも、果てはこの状況に持ち主まで何もかもが怪しい。
ここまで来ると気味が悪いを通り越してこの得体の知れない液体が何か予想がつくというものである。
だからといって、それを口に出しはしないけども。
「これはね、薔薇から取った糖液なのよ。砂糖の代わりに紅茶へ入れるの。私も愛用しているわ。」
色は少し奇抜だけれど、お茶に溶かせば気にならないわ、と王妃は続ける。
いやいや、薔薇から取った糖液が本当にこんな色をするんでしょうか?
いや、しないと思うんだよ。
そして、愛用というのはどういった意味での愛用ですかね?
「ほら最近、カリストが忙しくしているでしょう?あれでは疲れが溜まってしまうわ。」
「そうですわね。」
全く気にもしていなければ、王子の様子を見てもいないのによく言うわ。
ある意味では王子の動向をよく見ているのかもしれないけれど。
「それでね、疲れには甘いものが効くというわ。貴女にこれをあげるからカリストにこれを入れたお茶を出してあげて欲しいのよ。ああ、そう言えば貴女は珍しくお菓子作りが得意だったわねぇ?お菓子に入れる砂糖の代わりにも使っても良いわよ。充分、味はちゃんと出ると思うわ。」
「......。」
ルシアは微笑みを顔に貼り付けたまま王妃を見やる。
光景だけなら息子を心配して嫁に協力を仰ぐ優しい母である。
さて、この状況を後ろで黙って控えるイオンが何を思って見ているだろうか。
ルシアはもう一度、テーブル上の小瓶を見つめた。
十中八九、中身は毒だろう。
それをわざわざ使用方法まで口上に乗せて王妃はルシアに勧めている。
毒物耐性のある王子に出せ、ということはルシアが口にしたら一溜りもない代物だと解る。
薄々気付いていたけども、ね?
確信が高まるにつれて禍々しさがより強く感じる。
そうルシアが思案している間、それなりの沈黙が広がる。
しかし、それに王妃は口を挟まない。
自分のカップを持ち上げて飲んでみせさえする。
よく毒物と一緒にテーブルに置いたお茶を飲めるものである。
いくら、小瓶の蓋が閉まっているとはいえ。
強いて言うなら毒物の入った小瓶に触れた後でよく口に出来る。
まぁ、手に付着させるようなへまをこの人がする訳ないし、慣れているのかもしれないが。
何よりルシアが薄々それがただのシロップではないだろうと気付いていることに気付いた上で反応を待っている。
私の指示を聞くか、聞かないか。
駒としてあるのか、それとも?
そう問い掛けられているとルシアは正確に読み解いていた。
やっぱり、最終勧告じゃねーか!!
要は王子を殺せと、実行犯として行動せよと言っている。
断れば、完全に私が王妃の駒ではないと知られることだろう。
そして彼女は私を敵と、役に立たない邪魔者と判断して即座に切り捨てるだろう。
かといって、受けたとしても私に助かる道はないと思われる。
仮に成功したとしても失敗したとしても、毒を盛ったのは私だとバレるだろう。
だって、私が出したお茶だから。
お菓子に至っては製作者である。
バレれば確実に処刑される。
王妃が口添えすれば助かるかもしれないが、この人のことだ、用済みの駒は消し去るに決まっている。
「......王妃のお気遣い、わたくしもとても嬉しく思いますわ。」
「あら、嬉しいわ。では、カリストにあげてくれる?」
ルシアの言葉に王妃は笑んで小瓶を持ち上げこちらへ差し出す。
ルシアはそれに手を伸ばそうとして途中で止めた。
「どうしたの?さぁ、遠慮せず受け取りなさい?」
手を宙に浮かせたまま俯いたルシアに王妃に焦れたようにぐい、ルシアの手に小瓶を押し付けた。
しかし、ルシアが掴まない為に王妃は小瓶から手を離せない。
王妃の表情の仮面が外れかけたのか、意地の悪そうな不機嫌に歪む顔が垣間見えた。
「......ですが、これは受け取れません。とても心苦しいのですけれど。お茶もお菓子もそれぞれに合う砂糖がありますので。」
「......へぇ、本当に要らないのねぇ?」
王妃の顔が邪悪とも言える笑みを形作る。
ルシアはそれでも毅然と俯いていた顔を上げて対峙する。
王妃の命令を聞いても聞かなくても。
どちらにしろ、行き先は地獄だというなら。
まあ、元より受けるつもりなんて。
「はい、要りませんわ。」
ルシアははっきりと微笑んで答えたのだった。
同時に掌へ押し付けられた小瓶を掴んで後ろへと投げた。
到底、令嬢が見せることのない雑な投げ方だった。
結果として小瓶をひったくられた王妃は今度こそ分かりやすく顔を歪めた。
「......どうなっても知らないわよ、貴女。貴女の代わりはいくらでも居るわ。」
「...そうですわね。けれど、まだわたくしは退場する訳にはいきませんのよ。それでは王妃様、刺激的なお茶をありがとうございましたわ。わたくしこの後カリスト様との予定があるのです。名残惜しいですけれどお暇させていただきますわ、ご機嫌よう。」
ついに脅しの言葉を口にした王妃に構わずルシアは腰を上げた。
本来、主催者であり、立場も上の王妃の許しがなければ中座なんて出来ないんだけども。
何なら、王子との予定なんてない。
今、彼は睡眠中で予定があったとしても夕食くらいだろうか?
まだまだ夕食の時間は遠いし、わざわざ約束している訳でもない。
「っ、覚えておきなさい!私に逆らったこと精々後悔するのね!!」
踵を返して庭から離れていくルシアに後ろからヒステリックにも聞こえる王妃の声がかかる。
しかし、ルシアは完全に聞こえないものとして振り向かない。
いつの間にか、移動していたイオンがルシアの背後について王妃からルシアの姿を隠した。
「......。」
ルシアはただ真っ直ぐに前だけを見据え歩く。
足取りは優雅にされどもとても速く。
『貴女の代わりはいくらでも居るわ。』
ルシアは王妃の言葉を反芻していた。
確かにそうだ。
あの王妃なら言うことを聞かないルシアを弑して新しい駒となる令嬢を王子へ嫁がせることだろう。
王妃にも言ったけど私はまだ退場する訳にはいかない。
物語はまだ始まったばかりで終わりはずっと先だ。
まだルシアが退場する場面ではないのだ。
ルシアの代わりに駒となる犠牲者を増やす訳にはいかない。
王子妃を下りることは出来ない。
それに私にはまだやることがあるから。
ルシアは心の中でそう呟いた。
スラングとの二度目の戦いが終わりたった数日。
秋風がそろそろ肌寒くなってきた昼過ぎに。
ルシアははっきりと王妃と敵対したのだった。
さて、これで王妃とは敵対しましたが、ルシアはどの立場になるのでしょうね?
多分、彼女はこうなった今でも王子陣営に入ったとは露ほども思っていないことでしょう。




