129.空気を揺らすような
イストリアの最前線最寄りの街の屋敷にある広間にはたくさんの負傷者が寝かされている。
しかし、丸々二日間の治療の甲斐あってか、誰もが順調に回復へ向かっていた。
付きっきりの必要がまくなった為、ゲリールの民やルシアたちは多少、忙しさが緩和されてきていた。
「...あちらの負傷者をこちらへ送っては来れそうにないのかしら?」
「...あー、少し厳しい者が幾人か、だな。」
広間の脇にて真剣な表情のルシアは一時連絡係として屋敷に現れたノーチェと会話していた。
議題は最前線に居る負傷者のことだ。
この屋敷に居る負傷者はもう大丈夫だが、まだ最前線に居る負傷者、また今まさに怪我をしたであろう者がどれだけいるのか。
そして、ノーチェの答えは動かすのが難しい負傷者が居るということである。
「ありがとう、ノーチェ。貴方もまたあちらに戻るのでしょう?気をつけて。」
「ああ。......嬢さん、これを。」
現状の厳しさにルシアは息を吐いて、ノーチェを見上げた。
それほど身近に戦争が起こっていることを嫌でも認識させられる。
そして、ノーチェもまた王子の任務中だから戻っていくだろう。
最前線へ。
戦況が悪ければもっと切迫しているだろうし、私がここに居られる訳がないので状況はこちらが優勢なのだろう。
時期的にも盤面は終局にあるはず。
とはいえ、向こうには今回の戦争ではイレギュラーなスピンが居ることを考えたら油断は出来ないけれど。
ルシアの声がけに答えたノーチェはルシアに紙の束を差し出した。
渡されたルシアは首を傾げながら、手の中のそれを見る。
書類の束ともう一つは封筒に入っていた。
手紙だろうか?
書類の束を抱えて、手紙だけをつまんで掲げ上げた。
「こっちは俺たちがここを離れてから今までの戦況について。そっちは殿下から嬢さんへ。」
「え゛。」
ノーチェは最初に書類の束を指し、次に手紙を指した。
今までで一番素直に嫌そうな表情でルシアは手紙をつまみ上げた体勢でピシリ、と固まった。
「しっかり渡したからな、じゃ。」
渡したと念を押してノーチェは素早く去っていった。
ルシアは送り出しの言葉をかける間もなく。
暫くしてふ、と手を下ろし力を抜いたルシアはそれらを持って広間から出た。
「ルシア様。」
「ああ、ノックス。彼らを集めてくれた?」
そこで声をかけられてルシアは振り向く。
そこに居たのはノックスだ。
ノックスにはゲリールの民たちを集めてもらうように頼んでいた。
「はい、もう集まってます。」
「そう。では、すぐに始めましょう。回復に向かっているとはいえ、看病が要らない訳ではないから。」
ルシアはノックスと共に隣の大部屋へと入った。
ノックスの言う通り、そこにはグウェナエルやエグランティーヌも含め、ゲリールの民たちが居る。
うん、すぐに済ませよう。
これは一時仕事を止めている状態だ。
ルシアは既に入室していたイオンに紙束類を渡し、ゲリールの民たちを見渡す。
「皆、作業があるでしょうから手短に言うわね。明日、戦場の拠点まで行こうと思うの。」
ルシアの唐突な言葉にざわめきが起こる。
「勿論、危険は承知。それを出来る限り回避して重傷者だけでも治療出来たらと思っているの。」
「それで俺たちの中からも来て欲しいということかな?」
代表して声を上げたのはグウェナエルだった。
ルシアの言葉の先を読んで、話の本質を尋ねる。
「ええ。けれど、あちらは本当に戦場だわ。今以上に無理強いは出来ない。それに少数精鋭が良いでしょうね。」
「...ああ、そうだね。期限は?」
「今夜までよ。グウェナエル、決を取ってもらえるかしら。」
「分かった、良いよ。」
命の危険が全くない訳ではない。
あとスムーズに動くには数人程度が良い。
グウェナエルは同意して人選の期限を問う。
ルシアは答えて人選をグウェナエルに任せた。
「話はこれだけよ。皆もよく考えておいて。ただ、目の前の患者には集中してちょうだいね。貴方たちの働きには本当に感謝しているの。」
ルシアの言葉に頷きがいくつも返ってくる。
「わたくしは貴方たちの力を借りることしか出来ないけれど、それでも出来ることにはこの手を名一杯に広げてやり遂げるわ。これからも手伝いをするわ。だから、よろしくね。」
ルシアは部屋の扉を開けた。
促されるままにゲリールの民たちは仕事へ戻っていく。
部屋に残るはイオン、ノックス、ルシア。
そして、出ていこうとして立ち止まったグウェナエルだった。
「ルシアちゃんも明日は?」
「ええ。」
難しい顔をして尋ねるグウェナエルの言葉には述語が抜けていたが尋ねられているのが何か、分からぬルシアではない。
笑みを浮かべて頷いた。
「怪我は厳禁だからね。」
それだけを言ってグウェナエルは部屋を出ていった。
確かに治療する側が怪我してられないもんね。
「イオン、ありがとう預かってくれて。」
「いや、良いですけどこれは?」
イオンに向かって差し出したルシアの手にイオンは紙束を乗せながら問うた。
「......戦況と、カリストからの手紙よ。ノーチェが持ってきたの。」
「...あー。」
躊躇い、後に発せられたルシアの言葉にイオンは眉を軽く下げて声を上げた。
「まあ、これは良いわ。夜に目を通すから。今は手伝いに戻りましょう。」
「後回しですか?」
「違うわよ。...ただ、もっと優先することがあるだけで。」
「そういうのは目を逸らさず言ってくださいよお嬢。」
紙束に目を通さずに部屋から出ようとしたルシアにイオンが的確な指摘を入れた。
ルシアは表情こそ普通に答えるが、目は明後日の方向に泳いでいた。
「...でも、優先するべきことがあるのは事実よ。戻りましょう。」
「はいはい。」
開き直ったルシアにイオンは肩を竦めて従い、部屋を出ていく。
ルシアも同じく部屋を出ようとして振り向いた。
その行動に首を傾げたノックスが声をかける。
「どうしました?」
「いいえ、ただちょっと。気のせいだったみたい。」
「?」
遥か遠い空で空気を揺らすような音が鳴ったのをルシアは聞こえた気がしたのだ。
まさに戦場の方から。
まあ、戦場だったなら聞こえる訳ないんだけど。
より首を傾げるノックスにルシアは首を横に振り、広間へと戻っていった。
そして、その日の夜のうちに最前線からスラングを迎撃に成功してイストリアが勝利を収め、スラングとの最初の戦いが、主人公である王子の初陣が、小説の第一幕が下ろされたことを告げる報せをルシアは受けたのだった。




