第四話
「君は今死の淵に立ってるわけだけど……一体、どうしたい?」
「……」
喜色満面にどこか諳んじるように言ってみせる少年。
あまりに荒唐無稽な出来事に目を白黒させるオスカーは、纏まらない思考のまま辺りを見渡す。
果てがないとも思える世界には目の前の少年と自分以外は何もなく、それが頭を混乱させる。先程まで感じていた鈍痛や疲労といったものは全て消え去り、体をくまなく確認しても傷の一つも見当たらなかった。一体何が、と理路整然としない思考を払うようにかぶりを振るうと、軽薄さを身に纏う見知らぬ少年に向き直る。
「それで、お前は何者だ?」
ギン、射抜くように睨み据えるオスカーの誰何に、やれやれと呆れるように首を振るう少年。
「僕が何者か知りたいのは解るけどさ、流石に不躾が過ぎないかな?訊ねるんならもうちょっと慇懃にしないと。もうちょっとさ、やんごとなきお方と拝察しますが、宜しければ~みたいな感じで言ってくれれば教えてあげようかなーっていう気持ちは湧いてくるかもしれないと思うんだけど、そこらへんはどうかな?」
ちらり、とさも愉快気に視線を送って来る少年。その視線が含むことを理解し、しかめっ面で言葉に詰まるオスカー。少年の視線が意味するのは、簡単に言えばお前敬語使えよといったもの。
生意気な少年にこの様な事を言うのは癪に思えたが……とはいえ、時と場合は弁えなければならない。諾々と先程口にしていた言葉を復唱する。
「やんごとなきお方と拝察しますが、宜しければ貴方様が何者なのかを教えていただけますか?」
「わーお、見事なまでに誠意のこもってない棒読み。いや、面白いね、あはは!……ま、誠意を込めて言っても言ってなくても、どの道教えないんだけどねー。気持ちが湧いてくる「かも」としか言ってないから、仕方ないよねー」
揶揄うようにケセラセラ笑う少年に、ぴくり、眦を吊り上げるオスカー。
オスカーの人生経験の中でも、ここまでにべもなく一蹴されるのは初めての経験だった。
とはいえ逐一気を揉んでは話は進まないだろうとこの短い会話の内に確信し、感情を排斥して意識を。この様な生意気な口を利く人種は初だが、似たような人間は知っている。経験則から導き出した結論である。
状況を理解するために記憶を掘り返す。最後の記憶といえば、痛みすらも最早感じなくなり、意識の中で朧気に見たノロウェに立ち向かうアレッタの姿を視界に収めたあの時。……あれ以降の事は憶えておらず、あれ程の傷を負ったのだ、だとすると死んでしまったのか。
……いや、待て。
そういえば最初、少年は今君は死の淵に立っていると口にしたような――――
「(……どういう事だ?)」
嘘であるならばそれまでだが、あの言葉を額面通りに受け取るならば、自分はまだ死んではいないはず。
死んでいるならばここは死の後の世界だと納得できるが、まだ死んでいないとはどういう事だ。死にかけたらこの場所に来るなどと聞いたこともない。呪詛に因る幻覚?死の目前の胡蝶の夢?いや――――
納得行く答えが見つからず、結局この状況を解決する鍵は目の前の少年が握っているのだろうと確信する。そもそも右も左も判らない現状、目の前の少年に頼る他方法がないのだ。
「この際この空間やお前が何者なのかは訊かないが……俺が知りたいのは、どうして俺がここに居るかだ。そして最初の言葉、死の淵に立っているけどどうしたいとはどういう意味なんだ?」
「んー、そこまで急き込む必要はないと思うんだけどなぁ……まあ興が乗ったから教えてあげる、元々その為に呼んだワケだしね。けどね、知ってる?さっきも言ったけど、物事の教えを乞うときは礼儀は欠かしちゃいけないんだよね。せめて敬語を使おうよ、特にこの世界の圧倒的な上位者に対しては、さ」先程のどこか飄々とした表情が落剝し、醒めた目でムシケラを見下すような、圧倒的な上位種の顔付き。「――――なあ、ニンゲン」
「――――か、ひゅっ」
――――ギシ、と空間が悲鳴を上げた。
総身の毛が逆立ち、心臓が締め付けられる錯覚。全身からぶわっと脂汗が滲み出て、平衡感覚を失った体が倒れ込み、呼吸も満足に出来ない。ノロウェの気配が生ぬるいとすら思える圧倒的なまでの気配。生存本能が悲鳴を上げる。恐怖のあまりに息どころか脈、それどころかの体の器官すらも活動を滞らせる。
意識が漂白され、ただ沸き上がる恐怖のみが寒さとして体中を苛む。それは本能のようなものだろう、助けを乞うよう前に手を伸ばした。
少年はその無様に満足そうに頷いて、ニコリと。
「うん、ここまでにしてあげる」
「――――ァ、は、ぁ……はぁーッ!はぁーーーッ!はぁ……ッ!はァ……ッ!」
ふっと、それこそ嘘のように霧散する重圧。
だが、オスカーの蒼白に染めた相貌に、留めなく溢れている玉のような汗、恐怖のあまりに蠕動を繰り返す体に過呼吸にも近い荒い息がその事実を否応なしに伝えてくる。
脳が、体が、本能が、目の前で変わらず笑みを湛えている存在が圧倒的な上位者であると認めていた。
「判ってくれたならばっちぐー。話を戻しちゃうけど、君はさっきまで自分が死にかけていた事を理解してるよね?魔槍トリアイナの槍の持つ能力、呪詛に蝕まれて」
こくり、荒い息を強引に落ち着かせながら静かに頷くオスカー。あの魔槍の能力は身をもって味わったばかりだ。
「いやぁ~、あの槍は凄いね、チートってやつだよ。一撃でも喰らえば、例え肉体が大丈夫だったとしても、あまりの苦痛に精神が――――魂が襤褸雑巾のようになってしまう。そもそも苦しんでる内に止めを刺せば良いワケだしね。そしてその槍を君が喰らって、それこそ残り数秒の命、と。それで君に訊きたいんだけど……もし生き延びれたら、何をしたい?」
「……それは、呪詛から生き延びれたらということか?」
「そゆこと。もしも呪詛から生き延びたらどうするって話」
あまりに突飛で奇天烈な質問に、一瞬、困った様子で逡巡の様相を見せるオスカー。困ったのは、別にどうしたいかを決めあぐねたからではない。質問の意味を推し量れなかったからだ。どうするかなど……そんなもの、最初から決まっている。これが、これだけがオスカーの存在意義。
「質問の意図は理解できないが、」その、鋭さだけを求めて薄く研がれ過ぎた氷刀の凄絶な笑み。「――――決まってる。アイツを殺すだけだ」
その、隠しきれぬ憎悪に、堪らず面食らったようにクッ、と押し殺したような笑いを漏らす少年だ。予想以上の返答に露骨な喜悦に顔を歪めながら、それはさながら天からの審問のように矢継ぎ早に質問を投げ出す。オスカーの返答に迷いも躊躇いもない。
「負けると知ってても?」
「当然」
「死んだとしても?」
「――――それが、どうした」
……先述したように、オスカーは英雄でも、勇者でも、騎士でも、武士でもない。
五分五分の戦いならば迷うことなく逃げを選ぶし、自分の保身さえ出来ていれば後はどうだったっていい。その性質は暗殺者に近いだろう、必要を求められればどれ程の姑息の手段ですら取るのだから。
だが、オスカーはとある状況下ならば自分の命が失われる事も厭わずに、敗戦が濃厚な戦いにも挑んでしまう。その状況下とは……魔人を相手にしている――――正確に言うならば魔王軍の指針に従っている者なのだが――――時、というワケだ。オスカーが憎んで止まない存在。何度も、何度も全てを崩し去った。
暗殺者は正しくない、正確な事を言うのであれば、復讐者――――復讐に燃え、身を窶し、最後に燃え尽きて灰になるだけの存在。研ぎ過ぎてしまった氷刃。鋭く、切れ味だけを求めて余計なものを削ぎ落してきた剣は、だからこそ脆い。
だが、自分がいつか折れてしまうと理解していながらもオスカーは止まることがないし、誓いを破る気など毛頭もない。何故ならば、自分の存在の意義はそれしかないからだ。
止まる時があれば、それは全てを鏖した時。
復讐が終わってしまえば、きっと自分は抜け殻になってしまうだろうという。空いた洞に填まっているのは憎悪のみ、復讐という命題なくしてオスカーは生きていくことは出来ないのだから。だが、オスカーはそれを、朽ちる事を是とする。偏執的と言われようが、これが復讐というものなのだから。
「……ク、ハ、ハハハハハハハハッッ!!!」
ふいに哄笑が轟いた。何が琴線に触れたのか、心底おかしそうに顔を手で覆いながら、喜悦を噛み殺すように、品性の欠片もない淫らで、全てを凌辱するような。
そんな少年を半眼で胡乱げに眺めるが、少年はその視線を気にする余裕もないようだ。ひとしきり笑い転げた後目尻に浮かぶ涙を拭い、最初に見た笑みと同じ類のものを顔に張り付けながら耳元に顔を寄せ、囁くような猫撫で声。
「やっぱ君は死なせるには惜しい男だ。彼女の傍は君こそがふさわしい。さあ、僕に魅せてくれよ、英雄くん――――」
言い終わると同時、先程まで感じていなかった疲労と倦怠感が堰を切ったようにオスカーの体に襲い掛かる。体が頽れ、力を込めてもピクリとも動かない。視界が黒く染まっていき、意識も薄れていった。
◇◇◇◇◇
「……あ、ぐぅ……」
意識を取り戻して、熱に灼かれるように茹だる体のままオスカーは視線を彷徨わせる。
どれ程時間が経ったのかは判らないが、捉えたのは、錫杖でそれこそ稲妻のようなノロウェの攻撃を何とか紙一重で捌いているアレッタの姿。その身体能力が凄まじさをオスカーは再認識するが、それでも所詮ジリ貧。
辺りには焼け焦げたような跡、木々は薙ぎ倒され、戦闘の苛烈を物語る惨たらしい破壊痕が残っている。アレッタの防御は見事なもので、本職のタンクと比べても遜色なく、オスカーとて攻めあぐねてしまうだろう。
だが――――それも時間の問題だ。反撃の機会も与えられず、防御に徹するのみで居れば、流石にいつかは攻撃を捌ききれなくなる。均衡はいつ崩れてもおかしくないほど、脆い。
「……」
少年の正体はこの際捨て置いて、状況の整理に上手く回らない頭を働かせる。
鎬を削る二人は戦いに熱中しているようでオスカーが意識を覚醒させた事に気が付いた様子はない。自分の得物である罅割れてしまった長剣はオスカーから離れた場所に転がっており、取りに行こうとすれば間違いなくバレる。
剥ぎ取り用と何らかの事態を憂慮して仕込み刀を持ち歩いてはいるが、あの堅固な肉体を前にすれば殺傷力には欠けよう。
だが、だからと素手で挑む方もリスクが高い。徒手での戦闘方法も多少は嗜んでいるが、だからといって一流には及ばず、目の前の相手に通じないのは明々白々だ。この戦闘では何に置いても剣は必須だろう。
「(……あれ、は)」
ふと、目に入ったのは無造作に置かれている先程引き抜いた長剣の姿。距離は開いておらず、この長剣ならばバレずに取ることも可能である。だが、この剣を十全に揮えるかどうかは判らない。先程のことを鑑みれば、楯替わりにしか成りえないだろう。
満足に使い熟せない武器を揮うなど言語道断である。これならば素手の方がまだマシだ。
≪――――おい≫
不意に重く、錆びた声が耳朶を打つ。誰だ、と意識を周囲に趨らせるが、二人を除けば他に気配などない。幻聴か、はたまた気付けないだけか。
≪――――オレだ、お前の前にある剣だよ≫
再度声が響く。剣、というと目の前にあるアレか、今日の依頼で取りに来た。
……。剣が意思をもって言葉を発するなどとは聞いたこともない。誰かが揶揄ってるのではないかとオスカーは再度意識を巡らせるが、やはり知覚できる範囲の中にこの声の持ち主と思しき人物の気配はない。
≪――――他に居るはずもないだろうが……まあ取り敢えずはオレが喋ってると仮定しろ、今は時間がないんだろ?≫
時間がない、確かにそうだ。ノロウェが戦いに熱中している今、隙を突くならばこの瞬間だろうし、他のタイミングは分が悪い。今は一分一秒でも惜かった。
成す術もない今、仕方なく目の前の剣が意思を持っていると仮定し、話を聞く構えを取る。
≪――――く、ク。成る程な、気付いていなかったのか。どうりで。……いや、だからこそオレの担い手に相応しい≫
何か含みのある噛み殺すような笑い、……あるで先程の少年のようだ。無性に腹が立ち、憮然と時間がないといったのはお前だろうと睨みつけるようにキツイ視線で促す。
≪――――それもそうだ。それでお前、単刀直入に訊くがオレを使う気はないか?≫
この剣を、か。……先程の会話を顧みて、お前が胸中を読んで話かけていると仮定して訊くが――――お前を使えば俺は勝てるのか?重い重くないなどはどうでも良い。それだけを教えろ。
嘘偽りも許さないというその問いに、やはり心の中を読んでいたのかハッと楽し気に鼻を鳴らして。
≪――――2分8分って言ったらどうだ?当然お前が2だ≫
試すような含み。それに同じように笑い返して、
「悪くない……!」
気が昂った時にのみに見せる獰猛な笑みで長剣を掴めば、歓喜の嘶きを上げるように剣に刻み込まれた不可思議な文字は燐光を放って鳴動する。オスカーは燐光を後光が如く身に纏い、手に持った瞬間には先程の疲れを感じさせないような速度で裂帛の気合と共に、猛然と突っ込んでいた。
傷を負いながらも少女を救うために敵に立ち向かう、傍から見れば英雄譚の一部のような光景を肌で味わいながら、ソレは嘲弄するように笑い声を張り上げる。
≪――――契約完了だ。さあ道化よ、機運を開け!せめて美しく舞って、儚く散ってくれ……!オレを、楽しませろ……!≫
――――数百年の時を経て、嘗てとある英雄を破滅に導いた必滅の剣が、定められた運命の中で無様に踊る復讐者の手に渡った