053 初日の終わりに
昼休憩の後も授業は続き、最後にテストを受け、真也たちは解放された。
その後の夕食はまたもやロシア料理であり、レイラは大変喜んだ。
そんな、うきうきしたレイラをようやく見られた直樹もまた、うきうきとしており、姫梨も混ざっての中々に騒がしい夕食であった。
夕食を終え、真也と伊織は、船での宿泊部屋である214号室へと戻っていた。
「……ズドラーストヴィーチェ」
真也は、二段ベッドの自分の段、下段に腰掛けながら、1人でロシア語の練習を行っていた。
レイラのロシア語講座は、なかなかに興味深かった。
オーバードは共通概念で会話しているが、本人が強く『ロシア語で話す』と念じれば、オーバード同士であってもレイラの言葉はロシア語に聞こえた。
いま真也が呟いているのは、「こんにちは」という意味のロシア語である。
「ドラースト……ドズラーストヴィーチェ……ドス、どず……? ドズトラー……?」
練習しているうちに、本来の言葉を忘れるという本末転倒な状況の真也に、不意に声がかかる。
「ズドラーストヴィーチェ!」
それは、伊織の声であった。
声のする方を見ると、伊織が濡れた髪と耳、そして腕で上半身を隠した素肌を晒し、シャワールームから身を乗り出して真也に向かって正解を言い放っていたのだった。
「ああ、ズドラースト、か。伊織、シャワー終わった?」
「うん。もういい。出るよ。
僕の耳だと、ここからでも間宮の呪文が聞こえるからね。
間違いが気になっちゃってシャワーどころじゃない」
その言葉とともにシャワールームの扉が閉じられる。その後、シャワーの音が聞こえないことから、伊織は中で服を着ているようだ。
どうやら、シャワーを浴びていた伊織にロシア語練習を聞かれていたようだ。
真也は恥ずかしいとともに、そのせいで伊織の入浴を中断させてしまったことに申し訳なさを感じた。
伊織はシャワールームの扉を閉めると、服を着て出てくる。
伊織はタンクトップにホットパンツというラフな格好で、頭にタオルを乗せて髪を拭きながら二段ベッドの上の荷物を漁る。
「すまん、伊織」
「ま、どうでもいいよ。別に」
真也の謝罪を受け流しながら、ドライヤーと櫛、そして形の違うブラシを二本持ち、真也の横に腰掛け、髪のケアの準備をしながら言葉を続ける。
「そんなに練習しても、まだ挨拶しか教わってないだろ」
「むしろ、せめて挨拶は忘れないように、と思ってさ」
「そ。っていうか、もっと簡単なのあったでしょ」
「えっと…ピュリフェ?」
はぁ、と伊織はため息をつき、真也へと言葉を返す。
「プ・リ・ヴェ!」
「ああ、プリヴェ、な。プリヴェ……プリヴェ……」
またもや呪文のようにロシア語を繰り返す真也に、伊織はもう一つため息をついて、ドライヤーを起動させる。
ゴー、というドライヤーの騒音で部屋の中が満たされる。
しかし、伊織の耳には、引き続き真也のロシア語呪文が届いていた。
伊織はドライヤーの勢いを弱め、自分の声が聞こえるようにしてから、真也へと言い放つ。
「あのさぁ……間宮ってさ、レオノワの事、好きでしょ」
「え!? ああ、その……」
伊織から急に告げられた言葉に、真也は驚く。
なんと言っていいかと思案する真也だったが、その様子だけで伊織には十分すぎるほど真也の内心は伝わった。
「ああうん、その反応でよくわかった」
真也は、隠していたわけではないが、レイラへの想いを口に出されたことでバツが悪そうに頭を掻く。
友人のウブな一面に、伊織は櫛で黒髪を梳き、ニヤニヤとしながら言葉を続ける。
「レオノワ、綺麗だもんな?」
「うん。……そう、だな」
伊織の言葉にピクリと反応した真也だったが、はにかみながらもその言葉に同意した。
伊織は髪の手入れを続けながら、ぼそりと呟く。
「ああいうのが、間宮のタイプかぁ。外国人好き、とか?」
レイラのことが好きな理由を、『外国人』で括られた事に真也は異を唱える。
「いや、レイラだから、だよ。普段は何考えてるか分かんないし、言葉も足りないけど、周りを凄い気遣う所とか……」
自分がレイラを好きになったのは、見た目だけではない。
ただ『綺麗』とか、『外国人』だからとか、そういったところでしかレイラを見ていないと伊織に思われるのが癪に障った真也は、伊織へと言葉を続ける。
次々とレイラの良い点を挙げていく真也に、伊織は笑みを浮かべたまま、ドライヤーを一旦止める。
「へぇ。そういうところが、好きなんだ?」
急に伊織から確認を取られ、真也は顔を赤くしながらも、コクリと頷いた。
部屋に静寂が戻る。
「あとは、この世界で初めて会った時、俺を守るために南宿で必死に戦ってくれてさ」
「間宮を?」
ハイエンドオーバードとしての真也しか知らなかった伊織は、その言葉に少し驚く。
「うん。まだ覚醒する前だったから」
覚醒前。であれば真也をレイラが守る、というのはよく分かる内容だった。
「それが、嬉しかった?」
「……それもあるけど、なんていうか、その姿が綺麗だったんだ」
戦う姿が、綺麗。
その言葉に、伊織が声を荒げる。
「……なら一目惚れじゃないか! 結局見た目かよ!」
「いや、違うんだって。なんて言えば良いのか……」
伊織は眉を釣り上げ、真也へと乱暴な言葉を放つ。
「そんな事を言うんだったらボクだって戦い方が綺麗だってよく言われるよ!」
自分の仲のいい友人が、自分を見た目でなく、心の部分で男だと認識してくれた真也が、見た目で他人を選ぶというのが伊織には許せなかったのだ。
急に責め立てられた真也は驚きながらも釈明する。
「いやいや、だから、レイラのことが好きなのは別に戦い方だけじゃなくてだな」
戦い方だけじゃない。と言われたところで、真也がレイラに一目惚れをしたという事実は変わらない。
「戦い方以外ぃ!? なら見た目だろ、一目惚れなんだから! なら僕だって!」
伊織も、見た目だけで言えば、そこかしこから賞賛の声を聞くし、ナンパされる。
「いやいやいや、性格だってな」
「いまさら性格ぅ!? そんなのならボクだって、真也と仲良いぞ!」
櫛を真也に突きつけて、伊織は真也に問いただす。
「……ってか、伊織が張り合ってどうすんだよ」
急に冷静に出てきた真也の言葉に、伊織はハッとする。
確かに、男の自分が、女のレイラと張り合ってどうするのか。
「……たしかに」
真也の言葉に納得した伊織は、ヘアケアを再開した。
今度は幅広のブラシに持ち替え、耳の部分の白い毛を丁寧にブラッシングして気持ちを落ち着ける。
なぜ、レイラと張り合ったのか。
その答えは伊織の中でもやもやとした疑問となったが、その答えを探すのは『よくないこと』のような気がした。
真也はニヤリと笑うと、お返しとばかりに口を開く。
「そういう伊織はどんな子がタイプなんだ?」
「え!?」
伊織は驚き、ブラッシング中の耳がピン!と立ち上がる。
伊織の言葉を待つ真也に、伊織は好きな異性について想像する。
「ボクは……そうだな。優しい人かな」
ふわっとした回答となってしまったのは、自分の今までの人生で、誰かに恋したことが無いからだ。
「へぇ。優しければ可愛くなくてもいいの?」
問いただす真也に、伊織は自分の好きな女性像、というのを形作っていく。
「まあ、最低限の見た目は、ね。でも、見た目が良くても中身がヒドいと嫌だな」
最低限の見た目。
それは結局、伊織の中で『理想の女性』が未だ固まらないための方便だった。
伊織はむしろ、内面から考えたほうがいい気がして、好みを告げる。
「あと、嘘つきもイヤだね。嘘はつかないで欲しい」
「それはハードル高くないか?」
「多少ならいいよ。でも、ボクの場合、嘘が分かっちゃうから」
伊織は自分のウサ耳をぴこぴこと動かし、アピールする。自分の耳は、あまり恋愛に向いていないのかもしれない。と伊織は付け足した。
伊織からのオーダーを受け、真也は1人の女性の名前を告げる。
「……あ、喜多見さんとか、意外と良いんじゃない? 性格キツくないし、嘘もあんまりつかなさそう」
その言葉に、伊織は想像する。
伊織と美咲が、2人並んで歩く。
伊織が美咲の手を引き、それにおずおずとついてくる美咲。いつもの自信のなさそうな顔で、伊織にエスコートされる。
持ち前のドジさで転ぶ。
それを、伊織が受け止めきれずに、共に転んだところで想像は終了した。
「んー、アレはちょっと……」
伊織からのNG宣言に、真也は、じゃあ、と次の女性の名前を考える。
伊織は、今日のやりとりで見直したレイラと2人で歩く姿も想像したが、完全に友人としてしか見られなかった。
「あ、それからもう1つ、恋人にするなら一番大事な事がある」
思い出したように、伊織は言葉を発する。
「なんだよ、伊織、理想高いな?」
「まぁね」
どんどんと、伊織に見合う相手のハードルが上がる事に真也はため息をつく。
「それで? 一番大切な事ってなんだよ?」
伊織は真也へと、言い忘れていた『一番大切な事』を告げる。
「男として……ありのままのボクをちゃんと見てくれる事、さ」
その言葉に、真也は頷いた。
「それは、大事だな」
「うん」
「どうだ? 今のとこ、伊織のお眼鏡に叶いそうな子はいるか?」
もはや、真也では伊織に合いそうな女性は見つけられなかったため、本人に丸投げする。
伊織は、先ほどまで挙げた内容に身合いそうな人物を想像する。
『そこそこの見た目』、『嘘をつかない』、『自分を男としてみてくれる』。
伊織の中に、1人の人物が浮かび上がった。
「うーん……あ」
何かに気づいた様子の伊織に、真也は色めき立つ。
「お、いるのか?」
ワクワクしている真也に、伊織は申し訳なさそうに、しかし、笑顔で言葉を返した。
「……いや、そんな『女性』は、今のとこいないね」
その回答に、真也はつまらなさそうに「そっかぁ、理想落とせば?」と呟き、「それは無理」と伊織は笑いながら言い返した。
「さ、もう寝ようか。ボクも後は上のベッドでやるよ」
「え、ここでやってもいいけど」
ドライヤーをコンセントから抜く伊織へと、真也が告げる。
「いや、いい」
残った部分、それは、エボルブドとして持つ、普段誰にも見せていない『ウサギの尻尾』部分だ。流石に真也にお尻を晒すのは恥ずかしい伊織は、真也の提案を固辞した。
「おう、分かった」
伊織が嫌だ、と言えばスッと引く真也の姿に、伊織は『理想の恋人』にこの一文も追加してもいいな、と思った。
先ほど、理想の人物として頭をよぎった当人であるし、伊織は『間宮が女ならなぁ』と残念に感じる。
そして、心の奥底で出てきたもう一つの方法『もしくは自分が…』という考えを、全力で心の奥底に始末した。
「明日はC級かぁ」
「C級は確かに大変だけど、間宮なら大丈夫さ。
おやすみ、間宮」
眠りの挨拶を告げ、伊織はベッドに備え付けられたハシゴに手をかける。
「伊織、スパコイナイ、ノーチ」
真也は、上のベッドへと向かうに対して練習中のロシア語で返答する。
伊織は、こんな時までレオノワのためにロシア語の練習か、と心の中でため息をつく。
そして同時に、その心の隅が、ズキリとするのを感じた。
「うん。間宮、スパコイナイノーチ」
心が痛んだ理由は、伊織にはわからなかった。
船上での夜は、静かに過ぎていった。