019 間宮まひるの兄という存在
『まひる、昨日の夜から、真也を、兄と、思ってる』
そのレイラの言葉は、自分に向かって「お兄ちゃん」と声をかけながら走ってくる少女の様子を端的に表していた。
一体何が起きたのかと真也は混乱する。
間違いなく昨日の段階では、自分を兄と似た人物と評していた。
そして、「友人になれる」とも言っていたはずだ。
レイラとまひるによるイタズラやジョーク?
可能性が頭を過ぎるが、こんな際どいジョークをする必要があるのか?
ましてや『死んだ人間』のジョークなど、身内がするものではないと真也には思えた。
つまり、レイラの言っていることは正しいのだろう。
でも、なぜ、どうしてたった一晩でああなるのか。
『真也?』
レイラからの一声で真也は現実へと戻る。
「レイラ、まひるさんがもうここに来てる」
『え? 本当? ……その、どう、すれば』
「と、とにかく、まひるさんと話してみる。電話切るね」
『……分かった。何かあったら、また連絡して。私も、連絡する』
「うん」
受話器を置き、真也はまひるへと振り向く。
まひるは軽い足取りで、気づけば真也のすぐそばまで来ていた。
「お兄ちゃん! 着替え持ってきたよ!」
まひるは少し息を切らしながら、両手に持った大量の紙袋を真也の方へと差し出す。
まひるは満面の笑みであり、伸ばされた腕を、早く早く、と言わんばかりに小刻みに上下させている。
どう見ても、昨日と同一人物には見えない。
「……どうしたの? お兄ちゃん」
「いや、間宮さん?」
「間宮さん、って、お兄ちゃんも間宮さんでしょ? それじゃ、どっちかわかんないよ」
あはは、と快活そうに笑うまひる。
大声に驚き、真也は周囲を見渡す。
周りには看護士や患者や、面会であろう人々もいた。
「と、とりあえず病室へ行こうか。ここだと、人が多いから」
「そうだね。騒ぐと他の患者さんの迷惑になっちゃうもんね」
荷物持ってよー、と紙袋を差し出すまひると、それをわたわたと受け取る真也。
2人の心情がどうあれ、側から見れば兄想いの妹と、妹の好意に気恥ずかしそうにする兄にしか見えない。
両手の空いたまひるが真也の腕に絡みつき、2人は病室へと戻る。
真也について何も知らされていない病院のスタッフから見れば、心温まるワンシーンだった。
病室へ戻ると、まひるは備え付けの棚へ持ってきた荷物を次々に仕舞う。
「あー、こんなに色々買って……連絡してくれたら持ってきたのに!」
真也は彼女の兄として接するべきかどうか決めかねていた。
少女は、自分の妹ではない。
しかし、目の前にいるまひるに失った妹の面影を感じてしまう。
本当に彼女が妹であれば、という考えを振り払いきれない。
しかし、兄のように振る舞って良いのかと理性が押し止める。
真也の頭の中は、その2つの思考に支配されていた。
「その……」
「どしたの?」
思考がまとまらないまま口を開いた真也へ、ずい、とまひるが近づく。
軽く首を傾げ、『兄』からの言葉を待つその姿は、第三者から見れば非常に愛らしいものだ。
「俺、俺は……」
対照的に、真也の瞳は小刻みに震える。
真也は、この世界に来て初めて自身の死体を見た時のような、不安感と焦りを感じていた。
「だいじょーぶだよ」
真也の不安そうな表情に気づいたまひるは、正面から優しく真也を抱きしめた。
真也よりも高いまひるの体温が、真也の身体を包み込む。
真也は一瞬強張ったが、まひるの体温に飲み込まれ、溶けるように体の力が抜けていった。
まひるはそのまま真也の隣へと腰を下ろすと、耳元で囁く。
「お兄ちゃん、大丈夫だよ。大変だったもんね。ゆっくりでいいよ」
まひるの言葉は、真也の心を優しく澱ませる。
しかし、その澱みの中で、真也は気づいてしまった。自分を抱きしめるまひるの腕が、震えていることに。
優しい声色と相反するように、小刻みに震えた腕。それは真也に、とてつもない違和感を感じさせる。
「まひる?」
違和感に気を取られた真也は、つい、まひるの事を呼び捨てた。
まひるの肩がその言葉にピクリと反応すると、はにかんだ様な声が真也の耳元で囁かれる。
「はい、まひるです。へへ」
まひるの言葉は、真也の耳には、彼を励ます様にも、まひる自身を納得させるためのようにも聞こえた。
その考えに至った時、真也はまひるの兄のフリをしようと決心した。
知り合ったばかりの少女であるが、真也にとって、彼女は失ったまひると重なってしまう。
そんな少女を突き放し、捨て置くことは真也には出来なかった。
真也はまひるの頭を撫でると、優しく彼女を引き剥がす。
「まひる」
今度は、真也自身の意思で彼女の名前を呼んだ。
「はい。まひるです。って、この下りさっきやったよ?」
「……そうだね」
「……お兄ちゃん、変なの。もう大丈夫?」
「ああ。大丈夫だよ、まひる」
名前を口に出す度に、少しずつ真也の中で目の前の少女が自分の妹に見えてくる。
しかし、真也はその甘い幻想をなんとか抑え込んだ。
この少女をなんとかして救わなければならない。
まひるは満面の笑みで真也を見つめていたが、何かを思い出したかのようにポンとひとつ手を叩く。
「そうだ、お兄ちゃん着替えよう! 昨日もそのジャージだったでしょ?」
その言葉と共に、まひるは先ほどクローゼットに仕舞った服を取り出す。
それは、やはりセンスまで同じなのか真也好みの服だった。
先ほど決心したばかりだが、やはりいきなり彼の服を着るというのは真也にとってハードルが高すぎる。
どうしようかと真也は思案するが、まひるはそんな真也の事などお構いなしに言葉を続ける。
「どしたの? お兄ちゃん。服、着替えないの? お兄ちゃんの服だよ?」
真也は、何気なく出たその言葉の奥、その目の奥に濁った光を見た気がした。
暗く、吸い込まれてしまいそうな光。
まひるが壊れてしまう。
真也はその直感に従うように、急いで口を開く。
「あ、いや、あとで着替えるよ。シャワー浴びてからじゃないと、結局二度手間だし」
真也は、取り敢えず先延ばしにするために言い訳をしたが、まひるは納得したようで、笑顔で頷く。
「それもそうだね。じゃ、服は戻しとくね。
でも、お兄ちゃん、汚い服のまんまだと良くないよ? まひる、汚いお兄ちゃんは嫌いだなぁ。ちょっと汗の匂いしたし」
「え、臭かった!?」
真也は焦って自分の服を嗅ぐ。
その様子を見て、まひるは吹き出し、大きな声で笑う。
その目の奥からは、もう先ほどの鈍い光は見えなかった。
「まあ、まひるはお兄ちゃんの匂い嫌いじゃないから気にしないけどね」
まひるが、ふふふと笑う。昨日は分からなかったが、どうやらまひるはよく笑う子のようだった。
真也は妹との日常に、幸せそうな笑い声に、むず痒くなり話を変えることにした。
「学校は?」
「午後から行くよ。お兄ちゃんが入院してるんで午前中お休みくださいっ、て言って無理やり来ちゃった」
「まひる、学校にはちゃんと行かないと」
「入院中のお兄ちゃんに言われたくないですー」
まひるは頬を可愛らしく膨らませ、わざとらしいジト目で真也を見る。
「でも、そろそろ学校に行かないと。じゃ、また来るね、お兄ちゃん」
「ああ、いってらっしゃい」
「……いってきます!」
まひるは軽い足取りで病室のドアノブを握り、真也へ振り返る。
真也には、その姿が昨日のまひるの様子とどこか重なって見えた。
「お兄ちゃん、早く帰ってきてね? あの家にひとりなんて、まひる、寂しいから」
明るい声色であるが、真也はまた瞳の奥にある鈍い輝きを見た。
真也は何か見てはいけないものを見た気がしてしまった。
まひるがドアを開けると、目の前には津野崎が立っていた。
「あ、こんにちは」
「あら、どうも、間宮まひるさん」
元気に挨拶するまひるに、津野崎もぎこちない笑顔で返す。
津野崎のその表情は、どこか違和感を感じているのをありありと写し出していた。
「今日も面会にいらしてくださったんですネ」
「はい。洋服とか持ってきました」
「そうですか。それはそれは」
「いえ。この後学校へ行かなくちゃいけないので、失礼します。
……じゃ、お兄ちゃん、また来るね!」
まひるは真也へ軽く手を振ると、小走りに駆けて行った。
津野崎の前で、『お兄ちゃん』と呼ばれた事で、真也の心臓は1つ大きく跳ねる。
駆けて行くまひるの背を見送っていた津野崎は、病室へ入りドアを閉める。
「お兄ちゃん、ですか」
その言葉に、真也は体を強張らせる。
まひるの様子は、やはり津野崎にとっても分かりやすいほどの異常さだった。
隠し通せるものではないな、と真也は先ほどのまひるとのやり取りを津野崎に打ち明けた。
「それで……兄のフリをしました。
いつまでこんな事を続けられるのか…分かりませんけど……」
真也は語尾が消えるように現状を吐き出すと、津野崎の反応をうかがう。
津野崎は目を少し伏せ、何事かを考えているようだったが、すぐに真也へ向き直す。
「ふむ……まあ、いいんじゃないですかネ」
「え?」
真也は、津野崎の軽い言葉に困惑した。
真也に対して親身になってくれた津野崎らしからぬ言葉に、真也は戸惑う。
その様子に津野崎は顔の前で手を振り、弁明する。
「いや、十分に驚いてますよ?
ですが……冷徹なようですが、こういった問題は、彼女か、その肉親が助けてくれと言うまではどうにもできないですよ、ハイ」
彼女か、その肉親。その言葉に真也は喉を鳴らす。
「……何が彼女の幸せか、私には分かりませんから」
「まひるの幸せ……ですか」
「ええ。もしかしたら、このまま間宮さんが彼女の兄になる事が彼女の幸せかもしれません。……たとえ、真実でなくとも。
それを無理やり精神科へ引っ張っていく権限は、私にはありませんよ、ハイ」
その理論は真也にも理解できた。
シンヤが死んだ事を突き付けるのは簡単だが、それをするのが絶対的正義ではない。
「だから、間宮さんが今後どうするかも含めてお任せします、ハイ」
津野崎は、ベッドに座る真也に目線を合わせ、その手の上に自身の手を重ね、真っ直ぐに真也を見る。
「間宮さんが兄のフリをするのが辛くなったら、教えてください。
間宮まひるさんが辛いと言ってくるようであれば、教えてください。
……その時は、必ず力になります、ハイ」
にこりと微笑む津野崎。その表情を見るのは、2度目だった。
真也は、彼女が会って間も無い頃、自分を落ち着かせてくれた時の事を思い出した。
「….…ありがとうございます」
真也が礼を言うと、津野崎は満足そうに真也の手を離し、立ち上がる。
「ところで、私がここに来た本題なんですがネ……。
間宮さんがよろしければ、今からでも本格的な異能検査をさせていただきたいんですが、よろしいですかネ?
もし気が乗らないのであれば、また後日にさせていただきますが」
このような事態になっていると思っていなかったのであろう、津野崎はバツが悪そうに頭をかく。
「……いえ、大丈夫です。俺も、ずっと考えていても仕方ないですから」
「分かりました。
では、朝食を買って実技検査用のホールへ行きましょうか。病院を出て左側にある大きな建物ですネ」
真也は手早く準備を済ませ病室を出る。
津野崎は前を歩く真也の背を見ながら、彼に聞こえぬよう独り言ちる。
「……これは……思っていたより複雑になっちゃいましたネ……やはり、机上の空論でしたか……」
間宮真也が間宮まひるに出会う事で、この世界に対しての愛着を感じるだろうと思っての面会であったが、話を聞く限り、むしろ愛着を持つ…というより依存を見せたのは間宮まひるの方であったようだ。
「でもまあ、目的としては達成できそうですかネ」
彼の気の掛け方から、間宮まひるは結果的に間宮真也をこの世界に縛る鎖になり得るだろう。
ただ、津野崎は間宮まひるの今後については、深く考える事は止めにした。
そこまでの面倒は、彼女には見切れない。
間宮真也という、最強のオーバードを得るため。
最高の『実験対象』であり『財産』を、この世界に押し留めるという目的を達するために必要な事だった。
そう冷徹に割り切ったふりをすることが精一杯だった。