185 潜水艦の、夜は更けて
潜水艦には、窓はない。
強度の問題や設置の難しさもさることながら、深い水の壁が空からの光を全て遮ってしまうからだ。
真っ暗な闇を映すだけなら、窓など必要ない。
強い光源を取り付けた海底観察用の潜水艇ならまだしも、風景を見るためだけに潜水艦の外にライトをつけるなどというのは、強度や秘匿性を重視する軍艦はもちろん、客船でもやらないだろう。
どうせ、魚たちは巨大な船体から逃げ、窓には塩水しか映らないのだから。
ホフマンの私室には、窓の代わりに青空を描いた絵画が飾られていた。
時間の分かりにくい船内で夜を示すように照明は絞られ、薄暗い部屋では、アンティークのテーブルランプだけが煌々と光を放つ。
部屋の中には二人。
ソファにだらりと腰掛け、テーブルランプの暖かな橙の光を顔に受けてグラスを傾けているのは部屋の主人であるホフマン。そして、対照的にピンと背を張って行儀よく腰掛けた軍曹のマルテロ。
本来であれば中将の……総司令官の部屋に軍曹がいるというのは珍しいを通り越してあり得ないが、今作戦中、マルテロはホフマンの副官である。
軍曹が副官につくというのも異例ではあるが、他でもないホフマンからの指名であった。
真意はわからないものの、マルテロは自身の役割を全うすべく、じっと彼の動向を見守る。
ホフマンがグラスを傾けるたび、からん、と氷が奏でる音色のみが広がる。
しばし静かな時間が流れていたが、ホフマンは眉間を揉むと『再度』愚痴をこぼしはじめた。
「全く……誰だ、こんな、学生のみの部隊を作ると言い出したやつは。知ってるかい、軍曹」
ため息混じりの言葉に、マルテロは間を置かずに返答する。
「ホフマン中将が発起人となったと聞いていますが」
「そうだよ? でも正確には、3年前の私だ。今の私じゃない」
「申し訳ありません」
「いいよ、単なる言い訳だよ。いや、言い訳ですらない、過去の自分に責任を押し付けただけだ。
あーあー。軍法会議でその論が通ればどれだけいいか」
「違いありません」
マルテロは、低いしゃがれ声で「ふふ」と笑う。
ホフマンは彼女の反応に気を良くして一度笑顔を作ると、ウィスキーで口を湿らせた。
「しっかし、オルコット准尉は、やってくれたねぇ……」
マルテロは心の中で『またその話か』と苦笑する。
口には出さないものの、ホフマンがこの話をするのは、もう3度目だった。
「先ほども伺いましたが……本当に、『言った』んですか?」
マルテロの相槌に、ホフマンは頷く。
マルテロはその場にいなかったが、『道化師』が『葬儀屋』に対し、人類の味方なのか疑わしいと発言したと一度目に聞いたときは想像だけで卒倒しそうになった。
「本人の前で、よくも『危険人物扱い』できるものですね……」
「彼女の出自を考えれば、我慢できなくなるのも……まあ、理解できなくはない」
ホフマンは文字通りに頭を押さえながら、ぼそりと呟いた。
『道化師の出自』。
前の二回とは違う方向へと進み、マルテロは疑問の声を上げる。
「出自、ですか?」
「エディンバラ、リース。覚えているかい?」
「……はい。『人類転換仮説』支持者の」
「そうだ」
国疫軍人たちの間で『リース』という言葉が出る時、それは一地名以外の意味を持つ。
近年に発生した、殻獣に依らない、凄惨な事件。
『選民思想』のひとつであり、オーバードは、これから始まる次の世界に適応した人類であるという『人類転換仮説』という考えを歪曲して支持した者が引き起こしたと言われる、オーバードによる、テロ。
被害者は400人以上であり、死者は200人を超える。『一個人』が起こした傷害事件としては、最大のものだった。
『リース』の名は国疫軍にとって苦々しいものであり、その最大の理由は、『犯人は未だ捕まっていない』という点にある。
「彼女はその場に居合わせたらしくてね。だからこそ、彼女にとって対オーバード用の異能なんて、許せないんだろうねぇ」
「そんなことが……」
マルテロはアリスの境遇に頭を抱えながら、それでも言葉を続ける。
「しかし……しかしそれでも、『葬儀屋』の本性を邪悪であると断じるのは早計すぎるのでは……。中将は、どうお考えなのですか?」
マルテロからの質問に、ホフマンは乾いた笑い声をあげる。
「ははは。『葬儀屋』の本性、か。そんなもん、私が知りたいっての」
「中将もお分かりにならないので?」
「正直なところ……全く分からん。国疫軍と自身の名誉のために補足するが、調べ尽くしたよ。隅から隅まで。
オルコット准尉に言われずとも、彼の本性というのは、一番の『懸念事項』だった。時間の許す限り調べたさ」
「それでも、分からなかったのですか」
「まあね。というかさ……」
ホフマンは不機嫌そうにこめかみを指で叩きながら、言葉を続ける。
「まずなんだよ、『殻獣の居ない異世界から来た』って。小説か何かか?
この時点で彼のことを信頼するのは難しいだろ」
ホフマンの言葉に、マルテロも苦笑いを浮かべる。
日本の異能研究所、『東日本異能研究所』から……津野崎から寄せられたその情報は、どれだけ多くの物的、論的証拠を添えられていたとしても、なかなかに信じられない内容だった。
ホフマンの、信頼できないという言葉に対し、マルテロは質問を続ける。
「では、彼を今作戦の鍵とするというのは……?」
「いや、それはブラフでも、お世辞でもない。実際問題、彼の異能がなければ勝てん」
「そうですか……」
マルテロは、ホフマンの気弱な言葉に、上官相手でありながらも言葉を詰まらせた。
そんな彼女の反応に、ホフマンは手を振って弁解する。
「決して敗北主義というわけではないよ?
敵の戦力を加味した、冷静な分析の上の判断だ。学生200人の実働部隊でできる範囲のことを超えてるんだよ。今作戦には、彼も、『おもちゃ箱』も……そして勿論、『道化師』も欠かせん。
本来なら、ここまで広がる前に散発的に芽を摘む予定だったが……相手さんの方が、足が速かったね」
ホフマンは両手を上げ、首を振る。しかしその表情は『降参』を表す動きと違い、余裕のあるものだった。
その様子を受け、マルテロも冗談半分に言葉を返す。
「……では、『葬儀屋』の事を、信じるほかないということですね」
「ふふ、そうさ。人事を尽くして天命を待つ。悪くはない賭けのはずだ」
「賭け、ですか」
「そうさ。いつも賭けだよ。私が出来るのは、配られたカードをこねることだけ。
今や『指揮者』なんて呼ばれてるが、『いいカードよ来い』と祈って、運が良かったからここにいるだけだ」
ホフマンは、両手で膝を打ち、『話は終わり』と立ち上がる。
「さぁて、明日からも忙しくなるぞ」
「今日も、張り合いのある一日ではありましたが」
「ははは、手厳しいねぇ?
明日からも、『彼ら』と仲良くやってくか」
ホフマンは笑いながら、グラスを持ち上げ、デスクへと向かう。
もう消灯時間を超えているにも関わらず、この後も書類と格闘するつもりなのかと、マルテロは眉尻を下げた。
「自分は意見する立場ではないと、重々承知しておりますが……もう少し、締め付けても良いのではないでしょうか。結成式でも、そう仰られていたかと思いますが」
ホフマンは、マルテロの言葉を聞きながらデスクに腰かけると、再度グラスの中身を一口舐めとった。
「あんなもの、口だけだよ。『持たざる者』は下手に出るほかないさ。彼らは一人一人が猛獣であり、兵器であり、災害だ」
ホフマンは自嘲する。彼もオーバードであるが、その強度2であり、お世辞にも戦闘に適した強度とは言えない。
そういった意味では、彼も『殻獣の脅威』にさらされる『非オーバード』と変わりはないのだ。
「知ってるかい? オーバードという、代価の効かない『個』が生まれる以前の、昔の『軍』ってのは、もっと厳しかったらしいよ?」
「……その方が、私はいいと思います。今の軍紀は……乱れているように感じられます」
「だから、軍曹のままなのだろ?」
差し込まれたホフマンの指摘に、マルテロはほんの少し肩を震わせる。そして、口の端を少しだけ、持ち上げた。
「……いえ、昇格に恵まれぬだけですよ」
「ははは。ならば今回の作戦が終わったら、好きな役職をこっそり教えてくれたまえよ」
書類から視線を外したホフマンは、左目を突き出してマルテロをじっと観察していた。
マルテロの心の中を覗き込むような『指揮者』の眼光に、マルテロは返事する。
「……『二階級特進』以外でしたら」
ホフマンの私室には、今日一番の笑い声が広がった。




