白い柴犬
木漏れ日を追うようにアリスは森の中をさまよい歩いた。どちらへ行けば森から出られるのか分からないけれども不安はない。暖かな陽の光にさえ当たっていれば安心できるから、少しの躊躇もなくぐんぐん森の中を突き進んでいく。どこかへ行くために歩くのではなくて、ただただ歩くことが楽しいと思えるくらいにはアリスはまだ幼いのだ。
そうはいっても、やはり少女の体力には限界がある。ちょうど腰掛に良い高さに盛り上がった木の根っこを見つけると、アリスはへたりと座り込んでしまった。どれくらい歩いたかはよく分からない。森の景色はどこも変わり映えしないように見えるから、もう何日も歩き続けたようにも感じる。耳を澄ませると葉と葉が風でこすれあう音が聞こえてくる。激しくざわついたかと思うと、次の間にはもう静かになっていて、そう思うとまたざわめきだす。一定のリズムを正確に刻んでいるようで、アリスは少しだけうきうきした。
風のリズムに合わせてゆっくり体を揺らしていると、その音々の中に新しい音が潜んでいることに気が付いた。その音は風とは別のリズムを刻みながら次第に大きくなってくる。アリスは音の正体を確かめることにした。音を聞き逃すまいと慎重に、はやる心を抑えつつ茂みを分け入ってみると、新しい音は落ち葉を踏みしめる音だということが分かった。白い柴犬が一匹歩いていたのだ。尻尾の先から耳の裏側に至るまで全身真っ白な毛でおおわれている。ひとつも汚れが付いていないのが森の中ではむしろ不自然だ。それはもう比喩ではなしに透き通るほど白く、それでいてブラッシングしたてかのようにふわふわの見事な毛並みだったから、アリスの目にも一目でただの犬ではないことが分かった。そして何より前足を地面につかずに歩いているのだから間違いない。アリスは大喜びで駆け寄った。
「かわいいわんちゃん。こんにちは。」
アリスが潤んだまあるい目であいさつをすると、柴犬も立ち止まって言葉を返した。
「やあ、こんにちは。」
アリスと同い年くらいの甲高い少年の声だ。
「わたしはアリス。あなたのお名前を教えて。」
柴犬の声に少しだけ被るように聞いた。
「僕は自分には名前をつけないんだ。でもみんなは白柴って呼んでるよ。」
「じゃあ、白柴さんね。」
アリスはにっこりと笑って続けた。
「ここで何をしてるの。よかったら一緒に遊ばない。」
「遊んでなんかいられないよ。僕は今大切な仕事中なんだ。」
「お仕事中?そんなふうには見えないけれど。」
「とっても大切な仕事だよ。僕は時間を作ってるんだ。」
「時間を?」
アリスは驚いた。
「時間って作れるの?」
「もちろん。君は作ったことないのかい。」
「ないわ。あるわけない。だって時間ってもともとある物でしょ。」
「アリスは何にも知らないんだね。」
アリスはむっとして言い返した。
「じゃあ今すぐ作って見せてよ。」
すると白柴はつんと鼻先を上にあげて、落ち着いた声で答えた。
「そうだね。ちょうど今は紅茶の時間だ。そうだ、紅茶の時間を作ろう。」
「紅茶の時間?」
「そう、紅茶の時間ができたよ。」
「何それ。紅茶を飲む時間ってことかしら。」
「違う違う。いつか紅茶を飲むときに思い出す時間だよ。この時間のおかげでいつか紅茶を飲もうって思えるのさ。」
アリスはよく分からないと思いながらも話をつづけた。
「それってただ名前を付けてるだけなんじゃないの?どうしてこの時間のおかげだなんて言えるの?」
白柴はやれやれという表情で答えた。
「君は今まで本当に意味のない時間を送ってきたんだね。そんなのつまらないだろ。僕は意味のある時間を作ってるんだ。君とこうしておしゃべりしている時間は、いつか紅茶を飲むときに思い出すんだ。だからとっても大切な時間なんだよ。」
よく意味は分からないけども、なんだか素敵なことを言っているような気もする。そう思ってアリスはもっとお話を続けることにした。
「それなら私も時間を作ってみていいかしら。」
「だめだめ。時間を作るのは僕だけだ。ほかの人が勝手に作ったら女王様につかまってしまうよ。それにそんなことしたら時間がめちゃくちゃになってしまうよ。」
アリスはつまらないと思ったが、つかまってしまうのはもっと嫌だ。そんな風に考えていると、今度は白柴の方からアリスに尋ねた。
「アリス、君はどうしてこんなところにいるんだい。」
「よく覚えてないの。自分の名前も、どうしてここにいるのかも。アリスって名前もキイチゴさんにつけてもらったのよ。」
「そうか、それは大変だね。助けてあげたいけど、僕には大切な仕事があるから。」
少し考え込んでから白柴は続けた。
「よし、今からこの時間をアリスの時間にしよう。」
「わたしの時間?」
「そうじゃない。いつかアリスが困ったときに助けてくれる時間だよ。」
「おまじないかしら。ありがとう。」
アリスはにっこりと笑って、お礼を言った。
「おまじないなんかじゃないよ。そういう時間を作ったんだ。まあ、君は何にも知らないんだから分からないのも無理はないか。とにかく、その先に細い道があってその先が森の出口だよ。森から出ればきっと助けてくれる人がいるだろうね。」
そう言って白柴はもふもふした尻尾で茂みの向こう側を指し示した。
「分かったわ。ありがとう。行ってみる。」
アリスはお別れをして、言われた小道を探すことにした。名残惜しい気もしたが、お仕事のじゃまをするのもよくない。自分に名前が付き、その名前が付いた時間ができた。こんな不思議で素敵な体験がこの後も待っている気がする。そう思うと先に進むのが楽しみで仕方がない。アリスは少しも迷わず、暗い暗い茂みの奥へと入っていった。