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プロローグ

幽鬼だ。 幽鬼が追ってくる。

 暗く、深い森の中を姉妹が疾走していた。 

半袖のシャツに半ズボンという軽装の少女が、切羽詰まった様子で声を上げる。

「先に行け!」

 少女と固く強く手を繋いでいる浴衣姿の少女は、戸惑いがちに答えた。

「お、おねえちゃん!でも」

「全速力で走れ!何があっても振り返るな!ここは私が時間を稼ぐ、だから一人で逃げろ!」

「そんな、そんなの、やだよぉ!あたし一人じゃ」

「いいから行けって!私もすぐに追いつく!」

「おねえちゃぁん・・・」

「ぐずぐずするな、行け!」

 姉に促され、手を離された妹は前方へと飛び出し、そのまま暗い森の中を走り続けた。

追ってくるものから逃げ切るために。

途中、何度か地面に転がっている石や蔦に躓いて転んで足をすりむいた。着ていた浴衣も泥だらけになってしまう。だが、すぐに起き上がって、涙をこらえて走り出す。突然、幽鬼の咆哮が聞こえた。獲物を逃がすまいとする、野獣の唸り声だった。

 それを耳にした妹は震え上がってしまい、こらえていた涙がぼろぼろと溢れ出した。

そして念仏のように呟く。

「助け、て、た、助けて!」

 恐怖と混乱の中で、妹は更に闇雲に逃げ続けた。自分を逃がしてくれた姉の身を案じる余裕も無かった。妹は思う。

 私の、せいなの?私が悪い子だから、こんな事になっちゃったの?


 この日、姉妹が住んでいる町で、夏祭りが開催された。神社の境内で、皆と一緒にお菓子を食べて、金魚を掬って、花火を見て、とっても楽しい一日だった。そして、そのまま終わるはずだった。それなのに。 最後のイベントである特大花火を見終わった後、家に帰ろうと言う姉を、妹が引き留めたのだ。

これで終わりなんて、つまんない。もっと遊びたいよぉ。 妹はそう駄々をこねて、姉を困らせた。 

既に夜も更けており、辺りは闇に覆われている。早く家に帰らなくてはならないというのに。 

その様子を見て、大好きなお姉ちゃんをもっと困らせてやりたくなった妹は、神社の裏手に広がっている深い森の奥へと、一人で足を踏み入れてしまった。初めての経験だった。普段は、町の大人たちですら近寄らない立入禁止区域に侵入してしまった。何の考えも無く。 それがいけなかった。 初めて入った森の中を歩いている内に、当然のように迷子になってしまった妹は、泣きながら姉の名を呼んだ。すると、追ってきた姉と合流できたのだ。妹は、自分を見つけ出してくれた優しい姉に抱きついた。 さあ、一緒に帰ろう、と思ったその時、姉妹の目の前に「それ」は現れた。「それ」は、野犬の亡骸を貪り食っていた。

 それは、「幽鬼」だった。

(幽鬼とは、この地域に古くから言い伝えられている、「人ならざる化け物」のことである。)

 食事を終えた幽鬼は、次に巨木を易々と根元から折り、地響きを起こした。

 幽鬼の外見は、姉妹が絵本で見た邪悪な怪物にそっくりだった。 体毛に覆われた、巨大な体躯に、鋭い牙と爪。 獲物を捉える蒼い双眸に、怖気を喚起する唸り声。

 姉妹は、架空の存在だと思っていた怪物が実際に、目の前にいるという現実に直面し、一瞬立ち竦んでしまった。そして幽鬼は、人間の子供達の姿を見て、餌と認識したらしく、涎を垂らしながら追ってきたのである。 非力な姉妹に残された選択肢は、逃げの一手だけであった。

 激しく後悔した。

 祭を取り仕切っている人達から、この町に古くから伝わる話を聞いていたのに。この土地には、幽鬼と言う恐るべき獣が棲んでいるのだと、教えられていたのに。夜、あの森に入ってはいけないと、言われていたのに。 これは罰なのかもしれない、と妹は思った。

 実を言うと、自分は本日の祭の最中に一つだけ、とても悪い事をした。大きな罪を犯したのだ。 その罪に対する罰が、あの幽鬼なのかもしれない。そんな考えが、脳裏をよぎった。悔恨と恐怖の涙が眼から零れる。妹は念仏のように唱え続けた。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―――。

 その間もひたすら逃げ続けた。しかし、子供の体力など高が知れている。妹の体は、限界を迎えようとしていた。

 もう走れない。そう思った時、唐突に視界が開けた。

「わあっ!」

 驚きで叫んだ妹は、またしても転んでしまい、その拍子に鼻を打ってしまった。痛みで気が遠くなったが、どうにか身を起こして前方を確認した。

「ここ・・・神社。戻って、きたの?」

 妹は、無我夢中で逃走を続けている内に、本日の夏祭りの会場であった神社の境内に戻ってきたのだと思った。 だが、周りをよく見ると違う。 全体的に、小さめで狭い。

 境内の雰囲気は、この世の果てのように荒涼としている。また鳥居や本堂も、姉妹がよく知っている町の神社のそれと異なり、どことなく寂れて色褪せていて、所々が崩れかけているように見えた。

 そう、ここはハッキリ言うと廃墟に近かった。 この時、妹は気付かなかったが、彼女が逃げ込んだこの場所は森の奥深くに存在している、今はもう使われていない「もうひとつの神社」であった。 森の中で迷子になった上に、正体不明の幽鬼に遭遇して逃げ惑った挙句、辿り着いたのだった。 現在の時刻は午前二時。 当然、深夜の境内に人の姿は無く、静寂に包まれている。少し冷静さを取り戻して、ゆっくりと立ち上がった。幽鬼の咆哮は聞こえない。

 逃げ切ったのか、と思って振り返ると、赤いものが視界に入ってきた。フラフラとよろめきながら、こちらへと近づいてきた人影。 それは、姉だった。

「え?・・・あ、あ、ああ、あああ、おね、お姉、ちゃん」

歯の根を震わせながら呟いた妹の前で、顔面蒼白となった姉は無言で地に倒れ伏した。

「いやあああっ!」

 我を忘れて、妹は姉に取りすがった。小さな両手に、べったりと  

 赤いものが付着する。妹を優先的に逃がした姉は、自分が身代わりとなって幽鬼にやられたのだ、と理解する。 これも罰なのか?

 妹が犯した罪に対する罰を、姉が受けたのか?

「血、あ、ああ、血、血を止めなきゃ」

 しかし、止血の方法を妹は知らない。左肩口から右脇腹にかけてザックリと斬られた姉の体からは、かけがえのない血液が流れ続けている。溢れ出す血の一滴一滴が、姉の残された命を更に削り続けている。

「や、やだ、やだぁ、血が、血が止まらないよぉっ!」

 いよいよパニックに陥った妹は、ピクリとも動かない姉の傍らに座りこんで、狂ったように両腕を振り回した。

「誰か、誰か来て!お姉ちゃん、あたしのお姉ちゃんが死んじゃう、死んじゃうよぅ!」

 その叫びに応えたのは、人間ではなく、幽鬼だった。

 野獣の咆哮が響き渡る。

「ひっ!」

 飛び上がった妹の周囲に広がる漆黒の闇の中、十数メートルほど先で二つの蒼い光が煌めいた。

 幽鬼の眼である。

「いやっ!いやあああああああああああ!」

 半狂乱になった妹は、姉の体を全力で揺さぶった。

「お姉ちゃん、起きて!お願い、起きてよ、起きて!」

 妹の必死の呼びかけにも姉は応えない。出血と痛みで意識を失っているようだった。その間にも、幽鬼は唸り声をあげながら、無数の牙の生えた口元から涎を垂らしながら、両目を爛々と輝かせながら、ゆっくりと、だが確実に接近してくる。

 妹は絶叫した。

「誰かぁっ!誰か助けてぇぇぇ!」

 しかし、やはり誰も来ない。

 この空間内に存在するのは、傷ついた幼い姉妹と猛り狂う幽鬼だけなのである。

 どうやっても姉が意識を取り戻さないと悟った妹は、姉の体を引きずって移動することにした。

「ぐすっ・・・ひっく、ううっ・・・ああっ」

 涙をこぼし、洟をすすりながら。

 極限状況で、眠っている力でも引き出されたのか、非力な子供の手によるものとは思えないほどの速度で、2人は境内の中を進み、やがて近くに建てられていた蔵の中に逃げ込むことができた。

 ぜえぜえと息を切らしながら、即座に扉を閉め、閂を下ろす。

 ここでとりあえず、一息つく。

 相変わらず目を覚まさない姉の体を年季の感じられる木の床の上に横たえて、妹は蔵の天井を見上げた。

 明かりもなく、薄暗くて広い蔵の内部は、どこか空気が澄んでおり清浄な気に満ちているように感じられた。

 この蔵は確か、町の大人、特に老人達が「宝物庫」と呼んで、とても大事にしており、御神体という良く分からないものを崇め奉っているような場所だった、と思う。夏祭りの会場となっていた神社にも、同じような蔵があった。

 普段は、他の町から訪れる神主や宮司達の手によって管理されており、濫りに侵入できないようになっているのだが、この時は偶然なのか、扉が開かれていた。神社の内部事情などには興味も関心も持たない姉妹がここに入るのは、これが初めてだった。左右に視線を移すと、なるほど確かに鏡や剣や護符などが棚に並べられており、ここが普通の空間ではないという事を物語っている。

 とても、とても、神聖な場所。

 身体も心も落ち着いてくるかと思った。

 しかし、そんな心の動きを打ち消すかの如く、蔵の扉に何かが衝突する音がした。同時に、苦しそうな唸り声が聞こえる。

 妹は両腕で己を抱きしめながら、呟いた。

「き、来たっ」

 幽鬼が、ここまで追ってきたのだ。そして、蔵の扉を体当たりで破壊しようとしている。中に避難している獲物2人を、捕食するために。

 幽鬼が、再度唸った。だが、その咆哮は、先程までとは明らかに違い、とても苦しそうで、いささか弱っているように思えた。

 神社の境内は、神域である。

 邪悪な幽鬼にとっては、いるだけで辛い領域なのかもしれない。  

 だが、今の姉妹にとって、危機的な状況であることに変わりはなかった。このままでは、自分達は間違いなく喰い殺される。あの幽鬼に、骨までしゃぶられるだろう。

 助けを求めて、妹は蔵の中を見回した。何か、武器になるものはないか。

 棚に飾られてある、やや装飾過多な剣を手に取った。重い。重すぎる。とても、非力な子供に振り回せる代物ではない。それに、長年放っておかれたせいであちこち錆びており、役には立たない。

剣を棚の上に戻すと、次は鏡を持ち上げた。これも重い。そう思った時、手を滑らせて鏡を床に落としてしまった。バラバラに割れた鏡の破片を拾い集めることは諦めて、向かいの棚にある数枚の護符を手にした。色あせた古紙には、妹には読めない文字で訳の分らない文様が描かれている。こんなもので、あの獣に対抗できる訳がない。捨て鉢な気分で、護符を床にばら撒いた。

 どうしよう、どうすればいい?

 正気を失いそうなほどの恐怖の中で、宝物庫と呼ばれている蔵の中を駆け回る。そして、見つけたものは

「・・・本?」

 最も奥に設置されている棚に、一冊の書物が安置されていた。

吸い寄せられるように、妹はその書物に近づき、そして両手で持ち上げる。重くも軽くもなく、不思議な感じがした。永い、永い時を 経た古書のように見えるが、埃にも塗れておらず、とても清潔で、見蕩れるほど綺麗だった。

 これは神様の本だ、と思った。

 と、その時、遂に蔵の扉が破られた。幽鬼の邪悪な貌が、破壊された扉の隙間から覗けた。妹は声にならない悲鳴を上げると、姉の傍に駆け寄って跪いた。姉は、床に突っ伏したまま、動かない。

「助けて・・・」

 手に取った書物を、抱きしめる。両目を閉じて、少女は呟いた。

「神様」

 次に、切なる願いを込めて、叫んだ。

「私のお姉ちゃんを、助けてください!」

 幽鬼が、唸りながら蔵の中へと踏み込んだ。


・・・同時に、少女の腕の中の書物が、光を発し始めた。


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